保守派や尊皇の立場からは「天皇制」という語を忌避して「皇室」や「国体」(こくたい、くにがら、くにぶり)などの語も使用されている。谷沢永一は2001年(平成13年)の著書で「天皇制という呼称は、天皇陛下ならびに皇室を、憎み、貶め、罵るための用語であり、国民としては、伝統に即して、皇室、という呼称を用いるのが妥当であろう」と述べた[32]、また谷沢によると、小説家の司馬遼太郎は「天皇制という語は、えぐいことばであり、悪意がインプットされている」と述べたという[32]。 天皇制絶対主義(または絶対主義的天皇制)とは、「大日本帝国憲法の下の天皇制は絶対王政の一種と看做す」という観点の元で使われている用語。日本の右翼も左翼も使っている。 左翼については、1930年代に社会主義・共産主義者の講座派が使用した[33]。講座派は、明治維新は不完全なブルジョワ革命であり、現状は半封建的地主制のため、ブルジョワ革命の後に社会主義・共産主義革命を目指すとした(二段階革命論)。これに対して労農派は、明治維新はブルジョワ革命で、現状は資本主義・帝国主義のため、社会主義・共産主義革命を目指すとした(一段階革命論)。日本共産党は綱領(2020年改訂)で大日本帝国憲法下の天皇制を「国を統治する全権限を天皇が握る専制政治(絶対主義的天皇制)」と記載する[34]。 右翼については、昭和初期の歴史家石井孝によれば、日本は明治維新により純粋封建制としての幕藩体制が解体され、絶対主義天皇制政権と国家が成立されたと記した[35]。 大日本帝国憲法下の天皇制をファシズムの一種と見做す観点による用語。 日本国憲法下における象徴としての天皇制を指す用語。 山川出版社「日本史広辞典」による概括は以下の通り。天皇制古代において、宗教的権威を背景に天皇を中心とした律令制国家が形成されたが、武家政治の時代(特に江戸時代)を通じて天皇の政治力は失われた。明治維新を契機にその伝統的権威を背景として、天皇を中心とする近代国民国家の建設が進められた。1889年(明治22年)発布の大日本帝国憲法は、天皇を統治権の総攬者と定め、統治権が憲法の条規により行使されるべきことを規定した。これにより、君主主権と立憲主義を併存させた、天皇制国家が確立した。1930年代は、権力機構の一環である軍部が政治的に肥大化したが、1945年(昭和20年)の敗戦により「天皇制権力機構」はおおむね解体された。1947年施行の日本国憲法では天皇の国政[要曖昧さ回避]への権能は否定され、国民主権の下での象徴天皇制が形成された。 ? 山川出版社「日本史広辞典」[3] 皇室の出自については多くの説が提出されており定まっていないが、記紀によれば初代神武天皇が即位したのは紀元前660年となる。当初の天皇は軍事的及び祭祀的な側面を持っていたと考えられる。 645年の大化の改新により、天皇中心の政治が始まり、「天皇」という称号も使用され始めた。7世紀後半から中国の政治体制に倣った律令制の導入が進められ、701年の大宝律令によって律令制が確立した。国号(日本)と元号(大宝)が正式に定められ、歴代天皇に漢風諡号が一括撰進された。こうして天皇を中心とした中央集権制が確立し、親政が行われた(古代の国体「建国ノ體」)。710年には平城京に遷都した。 9世紀ごろから貴族層が実質的な政治意思決定権を次第に掌握するようになっていった。10世紀には貴族層の中でも天皇と強い姻戚関係を結んだ藤原氏(藤原北家)が政治意思決定の中心を占める摂関政治が成立した。 11世紀末になると上皇が実質的な君主(治天の君)として君臨し、政務に当たる院政が始まった。天皇位にある間は制約が多かったものの、譲位して上皇となると自由な立場になり、実質的君主としての実権を得た。院政を支えたのは中級貴族層であり、藤原氏(摂関家)の地位は相対的に低下した。 鎌倉に武家政権が成立すると、天皇・上皇を中心とした朝廷と将軍を中心とした幕府とによる二重政権の様相を呈した。承久の乱では幕府側が勝利を収めた。だが、天皇側の勢力もまだ強く、鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇が天皇親政を復活させた。建武の新政参照。 室町幕府が成立すると天皇は南朝・北朝に分裂した(南北朝時代)。長い戦乱が続いた末、室町幕府の3代将軍足利義満によって南北朝の合一が果たされた(1392年)。義満は幕府の権力を強化するとともに、「日本国王」として明皇帝に朝貢する形式で勘合貿易を行った。
天皇制絶対主義
天皇制ファシズム詳細は「天皇制ファシズム」を参照
象徴天皇制詳細は「象徴天皇制」を参照
概要
歴史
古代
中世
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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