天皇制廃止論
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戦前、特に第一次世界大戦後における天皇制廃止論の原点というべきものは、日本共産党講座派による二段階革命論である。これは天皇制ロシア絶対君主制ツァーリズムになぞらえ、封建勢力である寄生地主とブルジョアジーの結合が天皇制を形作っているとし、ブルジョア革命の後に社会主義革命を起こすという理論であった。

当時、天皇制廃止論を主張することは不敬罪治安維持法違反等に該当することがあり、死刑になることもあったため、公然と主張することができない状態が続いていた。たとえば、特別高等警察を管掌する内務省警保局は日本反帝同盟[注 1]の「天皇制に対する反対運動」として「警察的軍事的天皇制反対」「朝鮮、台湾に於ける天皇制テロル反対」「天皇主義的ファシスト反対」などのスローガンが有ったことを調査し[3]、また、1933年2月4日の『反帝新聞』を「戦争飢餓テロ天皇制ファシズムに反対せよ」という記事によって発禁にした [4]
連合国占領期「連合国軍占領下の日本」も参照

戦後1945年10月4日、GHQ日本政府へ「政治的民事的及宗教的自由に対する制限の撤廃」という覚書(いわゆる「自由の指令」)を発した。この覚書は主要命題のひとつとして「皇室問題特にその存廃問題に関する自由なる討議」を含み、治安維持法など弾圧法令の撤廃、特別高等警察の廃止、また天皇制批判者を共産主義者と断じ処罰を明言した山崎巌内務大臣罷免[注 2]などを指令している。

10月20日、トルーマン米国大統領が「天皇制の存廃は日本人民の民意によって決定されるべき」[注 3]と発言すると、日本国内の大手新聞はこれを紹介するとともに、以後天皇制の存廃についての記事や投書を多く掲載するようになった。なお、この問題について当時の『朝日新聞』の報道姿勢は中立、『読売新聞』は左派、『毎日新聞』は右派であった[注 4]。1946年 日本共産党日本人民共和国憲法草案を発表し、共和制を主張した。

日本国内の大手新聞による天皇制論議は1946年1、2月を境に「天皇制の是非」から「天皇について」へと変化し、それすらも同年6月をもって後退していった。

一方、終戦直後、日本に対する諸外国の視線は厳しく、オーストラリアアメリカ国民世論が天皇制廃止を支持していたほか、中華民国?介石孫科孫文の息子)、イギリスのチャーチルソ連なども天皇制廃止を求めた。アメリカの上院は昭和天皇を裁判に掛けることを決議、中華民国は国民政府海外の雑誌に「ミカド去るべし」の論文を発表、フィリピンの弁護士会はアメリカ大統領に昭和天皇を裁判に掛けるよう要請、オーストラリアは国家元首たる天皇は一兵卒より罪が大きいと天皇を戦争犯罪人として裁くよう公式に要求していた。

第二次世界大戦中からアメリカ国内では「天皇戦犯論」が高揚した。1945年6月初旬に実施されたギャラップ社の世論調査では、「戦後、日本国天皇をどうすべきであると考えるか?」との問いに対し、殺害・苦痛を強い餓死36%、処罰・国外追放24%、裁判に付し有罪ならば処罰10%、戦争犯罪人として処遇7%、不問・上級軍事指導者に責任有り4%、傀儡として利用3%、その他4%、意見無し12%との結果が出た(山極晃・中村政則編集『資料日本占領1 天皇制』大月書店)。1945年9月には上院で「天皇を戦争裁判にかけよ」と決議されるに至った。

これに対し、知日家のボナー・フェラーズ准将の調査報告とマッカーサーの進言により「天皇制によって日本国民を統合し、間接統治をした方がアメリカの国益に適う」と、アメリカ政府は判断したため、天皇制はGHQによって存置された[5]昭和天皇の国内巡幸が大歓迎を受けたことも影響している)。ただし、天皇制に関して民主化を行う必要はあると判断し、皇室財産の凍結、不敬罪の廃止などを日本政府に求めたほか、新憲法によって天皇から統治権を剥奪し、天皇の権限を大幅に縮小することを求めた。
連合国占領終結後「象徴天皇制#議論」および「日本共産党#綱領」も参照

第二次世界大戦終結後、日本国憲法第1条により天皇は「象徴」とされ(象徴天皇制)、主権国民にあり(国民主権)、更に日本国憲法第41条で「国権の最高機関」は国会とされた。憲法の条文中に「君主」や「元首」の規定が存在せず、天皇がそれにあたるのか否かは学説として議論がある。また思想・良心の自由言論の自由が保障されたため、天皇制廃止論を主張することが罪に問われることはなくなった。

日本共産党は「一個人・特定一家が国民統合の象徴となる現制度は民主主義及び人間の平等と両立し得ない」とする立場だが、2004年の綱領では「その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべき」として、当面目指すとする「民主主義革命」(民主連合政府)では天皇制を事実上容認した。

これに対して日本の新左翼の大半は天皇制の打倒や廃止を主張し反皇室闘争を行っている。天皇や皇室を対象とした主な事件には、1971年 第1次坂下門乱入事件、1972年 日光皇太子夫妻襲撃事件、1974年 昭和天皇暗殺未遂事件である虹作戦、1975年 第2次坂下門乱入事件、同年 皇太子明仁親王および同妃美智子沖縄県行啓時のひめゆりの塔事件、同年 東宮御所前爆弾所持事件、1989年 昭和天皇崩御時の143件のテロ・ゲリラ事件[6]中央自動車道切り通し爆破事件など)がある。
主な論点

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共和主義

1881年、植木枝盛私擬憲法の中では最も民主的、急進的な内容とされる東洋大日本国国憲按を起草した。立憲君主制だが人民主権や、人民の抵抗権・革命権を明記した。

その後は自由民権運動の崩壊と天皇制国家の確立により、共和主義の伝統は切断され、美濃部達吉国家法人説吉野作造民本主義など人民主権を放棄して天皇制と妥協した理論が行われ、共和主義は水面下の思想となった[7]


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