天皇制廃止論(てんのうせいはいしろん)は、天皇制を廃止すべきとする主張や議論。「天皇制」の解釈により、狭義には大日本帝国憲法下の君主としての天皇の廃止論(君主制廃止)、広義には日本国憲法下のいわゆる象徴天皇制の廃止論を含む。なお皇室自体を廃止する主張の他、国家の制度として廃止するが文化伝統としては皇室を存続させる主張も存在する。他国での共和主義に相当する。 この節には複数の問題があります。改善 日本において最初に君主制の廃止を論じたものは自由民権運動における「共和主義」的な主張である。ただし、後世の天皇制廃止論と違うのは幕藩体制に代わる専制的な権威に対する否定を目的とした主張であったこと、当時はまだ天皇を中心とした国家観が完成されておらず、未だ流動的な時期におけるものであったことである(したがって、「天皇制」という言葉がまだ存在していなかった時期に相当する)。 中江兆民の『三酔人経綸問答』では、洋学紳士なる人物に、立憲制より民主制(共和制)の方が優れており、立憲制は君主の専制から脱出するための(途中駅の)「駅舎」に過ぎないといわしめた。ただし、兆民は「君民同治の社会」において、天皇と民権論とは矛盾しないとした。また、植木枝盛や馬場辰猪なども国家は君主制から立憲制を経て共和制に向かうとする説を唱えている。小田為綱によるとされる私擬憲法『憲法草稿評林』は国民投票によって皇帝(天皇)は廃立出来るとした。 天皇を「神聖ニシテ不可侵」「統治権ノ総攬者」と規定した大日本帝国憲法の制定以後に幸徳事件が起きる。この事件は社会主義・共産主義勢力を一掃しようとする当時の軍閥と検察(平沼騏一郎や山縣有朋ら)によるでっち上げであったが、宮下太吉ら明治天皇暗殺計画については、計画に関わった四人は認めている。宮下らの暗殺計画によれば、天皇が「死ぬ」ということで、天皇は神でなく人間であるということ(現人神観否定)を目指したものだった[1]。なお宮下らの思想的指導者であった幸徳秋水は計画には関与していなかったが、かつて兆民とともに天皇制については否定してはいなかった。のち無政府主義から共産主義に到る思想を独自に再構成するなかで、天皇制廃止論に傾いていった。 大逆事件以降、天皇制そのものの是非を語ることは次第に禁忌となっていったが、坂野潤治は尾崎行雄の共和演説事件を自由民権運動時代の頃の共和制論議の時のように安易に共和制について触れたことが政治問題化したと唱えている[2]。 戦前、特に第一次世界大戦後における天皇制廃止論の原点というべきものは、日本共産党や講座派による二段階革命論である。これは天皇制をロシアの絶対君主制ツァーリズムになぞらえ、封建勢力である寄生地主とブルジョアジーの結合が天皇制を形作っているとし、ブルジョア革命の後に社会主義革命を起こすという理論であった。 当時、天皇制廃止論を主張することは不敬罪、治安維持法違反等に該当することがあり、死刑になることもあったため、公然と主張することができない状態が続いていた。たとえば、特別高等警察を管掌する内務省警保局は日本反帝同盟[注 1]の「天皇制に対する反対運動」として「警察的軍事的天皇制反対」「朝鮮、台湾に於ける天皇制テロル反対」「天皇主義的ファシスト反対」などのスローガンが有ったことを調査し[3]、また、1933年2月4日の『反帝新聞』を「戦争と飢餓とテロの天皇制ファシズムに反対せよ」という記事によって発禁にした [4]。 戦後の1945年10月4日、GHQは日本政府へ「政治的民事的及宗教的自由に対する制限の撤廃」という覚書(いわゆる「自由の指令」)を発した。この覚書は主要命題のひとつとして「皇室問題特にその存廃問題に関する自由なる討議」を含み、治安維持法など弾圧法令の撤廃、特別高等警察の廃止、また天皇制批判者を共産主義者と断じ処罰を明言した山崎巌内務大臣の罷免[注 2]などを指令している。 10月20日、トルーマン米国大統領が「天皇制の存廃は日本人民の民意によって決定されるべき」[注 3]と発言すると、日本国内の大手新聞はこれを紹介するとともに、以後天皇制の存廃についての記事や投書を多く掲載するようになった。なお、この問題について当時の『朝日新聞』の報道姿勢は中立、『読売新聞』は左派、『毎日新聞』は右派であった[注 4]。
経緯
出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2015年4月)
独自研究が含まれているおそれがあります。(2018年11月)
自由民権運動期
第一次世界大戦後
連合国占領期「連合国軍占領下の日本」も参照