天璋院
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^ この4か月後に奥羽越列藩同盟の盟主に奉られていた輪王寺宮公現法親王や仙台藩宛に「逆賊薩長討伐」を願う書状を送っていたことが明らかになった。勝海舟らの和平工作を破壊、徳川家の存続を冒しかねないこの書状について、徳川記念財団の藤田英昭研究員は「このような篤姫の徳川復興を望む行動は、徳川家内でも(天璋院の)孤立を深めたであろう」と推測している[4]。
^ 天璋院が静寛院宮とともに勝海舟の屋敷を訪れ昼食をとった際、お櫃のご飯をどちらがよそうかとなった時は、勝がもう一つしゃもじを用意して、互いの茶碗にご飯をよそわせたと言われている
^ 大奥では「藩主実子の姫でなければお部屋様(=側室)扱いにしようという意見があった。さらに慶喜の父・徳川斉昭も、斉彬がなりふり構わない手段をとって身分の低い女性を送り込むことは将軍家を軽んじているとの書状を残している[8]。
^ 3月15日から4月5日まで。
^ 妙光寺所蔵。
出典^ 「鹿児島大百科」 p.151 - 南日本新聞社[注釈 1]
^ ⇒「膏肓記」歴史作家桐野作人のブログ2009年9月5日「篤姫幼名は「おいち」?」 史料は、尚古集成館所蔵『典姫様日記 寶印御方』典姫は島津斉彬娘、嘉永6年4月5日条「今和泉於市様が、今日篤姫様と仰せいでることになる」、『日記 表方御右筆間』 天保7年(1836)8月5日条「篤姫の義理の叔母にあたる女性が勝姫(かつひめ)と改名したので、以後、「勝」の字と「かつ」の呼び名を遠慮するよう通達があった」 ⇒鹿児島県歴史資料センター黎明館調査研究報告2010年「史料紹介「嘉永六年表方御右筆間日記」- 篤姫養女一件寸考 -」2018年5月14日閲覧
^ 小谷野敦『名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか』青土社、2011年、75頁
^ 『南日本新聞』2008年3月21日記事
^ 『篤姫』最終回「篤姫紀行」
^ 『旧事諮問録』岩波文庫、上巻、213p
^ 畑尚子「幕末の大奥と薩摩藩」(岩波新書(新赤版)2007年)P83-84
^ 『徳川将軍家の結婚』ISBN 4166604805
^ 日英 『時々興記留』[注釈 6]
^ “幕末の大奥で自由恋愛できた唯一のサト姫 それは篤姫の愛猫でした”. BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン). GH (2018年2月26日). 2019年1月9日閲覧。
^ 『花葵―徳川邸おもいでばなし』ISBN 4620312347
関連項目
大膳亮弘玄院
松平斉民
表
話
編
歴
徳川将軍家御台所
家康:築山御前 → 朝日姫
秀忠:小姫 → 豊臣達子
家光:鷹司孝子
家綱:浅宮
綱吉:鷹司信子
家宣:近衛熙子
家継:八十宮
吉宗:真宮
家重:比宮
家治:五十宮
家斉:近衛寔子
家慶:楽宮
家定:鷹司任子 → 一条秀子 → 近衛敬子
家茂:和宮
慶喜:一条美賀子
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