旧大陸では久しく流行状態が続いており、住民にある程度抵抗力ができて、症状や死亡率は軽減していたが、牛馬の家畜を持たなかったアメリカ・インディアンは天然痘の免疫を持たなかったため全く抵抗力がなく、所によっては死亡率が9割にも及び、全滅した部族もあった。他にも麻疹や流行性耳下腺炎(おたふく風邪)などがヨーロッパからアメリカに入ったが、ことに天然痘の被害は最大のものであり、白人の北アメリカ大陸征服を助ける結果となった。新大陸の二大帝国であったアステカとインカ帝国の滅亡の大きな原因の一つは天然痘であった。アステカに天然痘が持ち込まれたのは1520年頃、エルナン・コルテスの侵攻軍によってであると考えられているが、天然痘は瞬く間に大流行を起こし、モクテスマ2世に代わって即位した新王クィトラワクを病死させるなどしてアステカの滅亡の原因の一つとなった。さらにスペインの占領後も天然痘は猛威を振るい、圧政や強制労働、麻疹やチフスなど他の疫病も相まって、征服前の人口が推定2500万人だったのに対し、16世紀末の人口はおよそ100万人にまで減少し、中央アメリカの先住民社会は壊滅的な打撃を受けた[10]。また、インカ帝国においては侵攻を受ける前に、既にスペイン人の到達していたカリブ海沿岸地域から天然痘が侵入し、現在のコロンビア南部において1527年頃に大流行を起こした。この大流行によって当時のインカ皇帝であるワイナ・カパックと皇太子であるニナン・クヨチがともに死去し、空位となった王位をめぐってワスカルとアタワルパの二人の王子が帝国を二分する内戦を起こした。この内戦はアタワルパの勝利に終わったものの、インカの国力は疲弊し、スペインのフランシスコ・ピサロによる征服を許す結果となった。さらにインカ帝国においても征服後は同様に天然痘をはじめとする疫病が大流行し、先住民人口の激減を招いた。
北アメリカでは白人によって故意に天然痘がインディアンに広められた例もあると言われている。フレンチ・インディアン戦争やポンティアック戦争では、イギリス軍が天然痘患者が使用し汚染された毛布等の物品をインディアンに贈って発病を誘発・殲滅しようとしたとされ、19世紀に入ってもなおこの民族浄化の手法は続けられた。モンタナ州のブラックフット族などは、部族の公式ウェブサイトでこの歴史を伝えている。ただし、肝心の英国側にはそのような作戦を行った証拠となる記録は無い。 中国大陸では、南北朝時代の斉が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。その後短期間に中国大陸全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島でも流行を見た。 渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。『日本書紀』には「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(くだ)かるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)。585年の敏達天皇の死去も、天然痘の可能性が指摘されている。 735年から738年にかけては、西日本から畿内にかけて大流行し、「豌豆瘡(「わんずかさ」もしくは「えんどうそう」とも)」と称され、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した(天平の疫病大流行)。四兄弟以外の高位貴族も相次いで死去した。政治を行える人材が激減したため、朝廷の政治は大混乱に陥った。 この時の天然痘について『続古事談』の記述から、当時新羅に派遣されていた遣新羅使の往来などによって、同国から流入したとするのが通説であるが、遣新羅使の新羅到着前に最初の死亡者が出ていることから、反対に日本から新羅に流入した可能性も指摘されている[11]。奈良の大仏造営のきっかけの一つが、この天然痘流行である。 「独眼竜」の異名で知られる奥州の戦国大名、伊達政宗が幼少期に右目を失明したのも、天然痘によるものであった。 16世紀にキリスト教布教のため来日した、カトリック教会イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、ヨーロッパに比して日本では全盲者が多いことを指摘しているが、後天的な失明者の大部分は、天然痘によるものと考えられる[12]。 ヨーロッパや中国などと同様、日本でも何度も大流行を重ねて江戸時代には定着し、誰もがかかる病気となった。儒学者安井息軒、「米百俵」のエピソードで知られる小林虎三郎も天然痘による片目失明者であった。上田秋成は両手の一部の指が大きくならず、結果的に小指より短くなるという障害を負った。天皇も例外ではなく、東山天皇は天然痘によって死去している[注 2]他、孝明天皇の死因も天然痘との記録が残る[注 3]。 源実朝、豊臣秀頼、吉田松陰、夏目漱石は顔にあばたを残した。 天然痘を擬神化した疱瘡神は悪神の一つとして恐れられ、日本各地には疱瘡神除けの神事や行事が今も数多く残っている。疱瘡神は犬や猿、赤色を苦手とすると考えられたため、赤いものや犬の張子、猿の面などをお守りとして備える地域も存在した。福島県会津地方の郷土玩具「赤べこ」や岐阜県飛騨地方の「さるぼぼ」など、子供向けの郷土玩具に赤いものが多いのは天然痘除けを目的としていることが多い[13]。吉村昭の時代小説『破船』には、天然痘患者が赤い衣装を身にまとう描写がある。岐阜市にある延算寺(岩井山かさ神)や神奈川県の上行寺、日本各地に存在する瘡守稲荷神社などのように、疱瘡除けに霊験があると考えられた神社仏閣は各地に点在しており、現代でも信仰を集めている。 江戸時代にあっては疱瘡神として源為朝の肖像が描かれ、「疱瘡絵」(赤絵)と呼ばれた。これは、八丈島に疱瘡(天然痘)が流行しなかったのは、この島に流された為朝が疱瘡神を押さえ込む力があったためと信じられていたためであった[14]。 北海道には江戸時代、本州からの船乗りや商人たちの往来にともない、肺結核、梅毒などとともに伝播した。
中国大陸・朝鮮半島
日本天然痘によるあばた。塩田三郎。1864年撮影
疱瘡神さるぼぼ。色が赤いのはもともとは天然痘除けのためである
アイヌへの種痘による免疫付与