天海
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慈眼堂 - 大津市坂本にある天海の廟所(滋賀県指定文化財


輪王寺 慈眼堂

輪王寺 慈眼堂 天海墓

喜多院 慈眼堂

慈眼堂(大津市)

天海像

日光の神橋の近くには1976年(昭和51年)に彫刻家の倉沢実により制作された「天海大僧正銅像」がある[7]
天海の江戸設計この項目はそう唱えている研究者が一人いるというだけであり、多くのコンセンスを得られているわけではないということに留意されたい。

関ケ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603年)に幕府を開くにあたり、天海の助言を参考にしながら、江戸の地を選んだとされる[1]。天海は家康の命により伊豆から下総まで関東の地相を調べ、古代中国の陰陽五行説にある「四神相応」の考えをもとに、江戸が幕府の本拠地に適していると結論を下したとされる[1]

四神相応」とは、東に川が流れ、西に低い山や道が走り、南に湖や海があり、北に高い山がある土地は栄えると考えられたものである。天海は、東に隅田川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があったことから、江戸が四神相応にかなうと考えたとされる[1]。 なお、富士山は実際には「北」(真北)から112度ずれているが、天海を始めとする当時の江戸の人々は、富士山をあえて北とみたてて、江戸を四神相応にかなうとみなしたという[1]。江戸城の大手門の向きが「北」からずれているのも、富士山を「北」とみなしたためだとされる[1]

また、天海は、江戸にある上野、本郷、小石川、牛込、麹町、麻布、白金の7つの台地の突端の延長線が交わる地に、江戸城の本丸を置くよう助言したとされる[1]。陰陽道の知識により、地形の中心に周辺の気が集まることを狙ったとされる[1]

江戸城の場所が決定した後、藤堂高虎らが中心となって江戸城と堀の設計が行われたが、天海は、実務的な作業工程とは次元を異にする、思想・宗教的な面で設計に関わっていたとされる[1]。江戸城の工事は寛永17年(1640年)に終わるが、その途中で他の設計者が亡くなっていった中で、天海はなお存命しており、江戸の都市計画の初期から完成まで、50年近く関わったとされる[1]

天海は、江戸城の内部を渦郭式という「の」の字型の構造にすることや、城を取り囲む掘を螺旋状の「の」の字型に掘ることなどを助言したとされる[1]。「の」の字型の構造は、城を中心に時計回りで町が拡大していくことを意図したものとされるが、他に、敵を城に近づけにくくする、火災発生時に類焼が広がるのを防ぐ、物資を船で運搬しやすくする、堀の工事により得た土砂を海岸の埋め立てに利用する、などのメリットがあったとされる[1]

天海は、江戸城の北東と南西の方角にある「鬼門」・「裏鬼門」を重視して、鬼門を鎮護するための工夫を凝らしたとされる[1]。天海は、江戸城の北東に寛永寺を築き、住職を務めた。寛永寺の寺号「東叡山」は東の比叡山を意味するが、天海は、平安京の鬼門を守った比叡山の延暦寺に倣って、寛永寺の側に、近江の琵琶湖を思わせる不忍池を築き、琵琶湖の竹生島に倣って、池の中之島に弁財天を祀るなどし、寛永寺が、比叡山と同じ役割を果たすよう狙ったとされる[1]

上記の他、天海は、寛永4年(1627年)には、寛永寺の隣に上野東照宮を建立し、家康を祀り、もともと現在の東京都千代田区大手町付近にあった神田神社を現在の湯島に移し、幕府の祈願所とした浅草寺で家康を東照大権現として祀る[注釈 2]など、江戸城の鬼門鎮護を厚くしたとされる[1]

また、江戸城の南西(裏鬼門)についても、その方角にある増上寺に2代将軍である徳川秀忠を葬ったうえで徳川家の菩提寺とし、さらに、同じ方角に、日枝神社日吉大社から分祀)を移すなどして、鎮護を意図したとされる[1]

神田神社神田祭浅草神社三社祭、日枝神社の山王祭は、江戸の三大祭とされるが、それらの祭りは、天海により、江戸城の鬼門と裏鬼門を浄める意味づけもされていたとされる[1]。江戸城の位置は、寛永寺・神田神社と増上寺を結ぶ直線と、浅草寺と日枝神社を結ぶ直線とが交差する地点にあったとされ、天海が鬼門・裏鬼門の鎮護を非常に重視していたことがうかがわれるとされる[1]

天海は、江戸を鎮護するため、陰陽道以外の方法も利用し、主要な街道と「の」の字型の堀とが交差点であり、城門と見張所がある要所に、平将門を祀った神社や塚を設置したとされる[1]。将門の首塚は奥州道に通じる大手門、将門の胴を祀る神田神社は上州道に通じる神田橋門、将門の手を祀る鳥越神社は奥州道に通じる浅草橋門、将門の足を祀る津久土八幡神社は中山道に通じる牛込門、将門の鎧を祀る鐙神社は甲州道に通じる四谷門、将門の兜を祀る兜神社は東海道に通じる虎ノ門に置かれたとされる[1]。天海は、将門の地霊を、江戸の町と街道との出入口に祀ることで、街道から邪気が入り込むのを防ぐよう狙ったとされる[1]
天海に関する逸話

天海は前半生に関する史料がほとんど無いもののかなりの長寿であり、大師号を贈られるほどの高僧になった。また機知に富んだ人物であり、当意即妙な言動で周囲の人々を感銘させた。そのため彼には様々な逸話がある。

徳川幕府が林鵞峰に命じて『続本朝通鑑』を編纂する際に上杉家から献上された報告書『上杉将士書上』によると、天海は天文23年(1554年)に信濃国で行われた川中島の戦いを山の上から見物したという。この時、天海は武田信玄と上杉謙信が直に太刀打ちするのを見たが後に信玄に聞くと「あれは影武者だ」と答えられたという。ただし、この史料はこの時天海が45歳だったことになっていることや実在が疑われている宇佐美定行が上杉二十五将に数えられているなど不自然な点も多い。

天海が名古屋で病気になった際、江戸から医者が向かったが、箱根で医者の行列が持つ松明の火が大雨で消えてしまった。すると無数の狐が現れ、狐火をともして道を照らしたという[3]

ある時、将軍・徳川家光から柿を拝領した。天海はこれを食べると種をていねいに包んで懐に入れた。家光がどうするのかと聞くと「持って帰って植えます」と答えた。「百歳になろうという老人が無駄なことを」と徳川家光がからかうと、「天下を治めようという人がそのように性急ではいけません」と答えた。数年後、徳川家光に天海から柿が献上された。家光がどこの柿かと聞くと「先年拝領しました柿の種が実をつけました」と答えたという[3]

関ヶ原の戦いに天海が参加していたという話がある。関ケ原町歴史民俗資料館が所蔵する『関ヶ原合戦図屏風』に描かれた家康本陣には、天海であるとされる、鎧兜姿の「南光坊」という人物が配置されている[8]。この屏風は彦根城博物館が所蔵する江戸時代後期に狩野貞信が描いた屏風を模写したものであるが、彦根城博物館のものには「南光坊」と記載されていない。

大坂城の建物を利用した博物館・大阪城天守閣は、天海所用の伝承がある甲冑を所蔵している。

天海は、徳川秀忠と家光にそれぞれ長寿の秘訣を歌に詠んで送っている。徳川秀忠に対しては「長命は、粗食、正直、日湯(毎日風呂に入ること)、陀羅尼(お経)、時折、ご下風(屁)あそばさるべし」、短気で好色な徳川家光に対しては「気は長く、つとめはかたく、色うすく、食ほそうして、心ひろかれ」というものである。

異説輪宝

その出自の曖昧さもあり小説等で出てくる説として天海が足利将軍家12代・足利義晴の子という説や明智光秀と同一人物という説がある。「天海=明智光秀説」を参照
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 「御諱を犯すのみならず、豊臣家の為に当家を呪詛するに似たりといふ事を天海一人御閑室に召れたりし時密々告奉りといふ」
^ なお、浅草寺の東照社は覚永19年(1642年)に焼失した。

出典^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 宮元健次 (2013年3月28日). ⇒“江戸を大都市にした天海は、何を仕掛けたのか”. PHPビジネスオンライン衆知. ⇒http://shuchi.php.co.jp/article/1389 
^ a b 須藤光暉『大僧正天海』冨山房、大正5年。


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