天本英世
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また、“明日のことは考えず、今日を必死に生きる”という哲学は、大好きなスペインから学んだ[6]

自由主義者・無政府主義者で[1]、現代の日本に生きる人々に対して急進主義的視点から苦言を呈していた。「国家というものが大嫌い」と述べ、スペインへの移住を熱望し、2000年に発表した著書『日本人への遺書(メメント)』(徳間書店)においても「こんな呆け国家で死にたくない」と記していた。

天皇制昭和天皇戦争責任を不問にしようとする勢力(菊タブーを守ろうとする風潮、自民党政権、文部省)を批判して「テレビの収録で言及すると、その部分は全てカットされる。こういう事をしている限り日本人はいつまでたっても自立できない」と述べている[10]。また学徒出陣の経験は言葉に言い表せないほどのショックを受け、戦後になっても、戦争を賛美するような内容の映画には、依頼を受けても絶対に出演しないという姿勢を貫いた[注釈 1]。長身に対するねたみのために将校にいじめられ、軍が嫌いになり、その延長として左翼的になったという。

渋谷区の一戸建てで約30年間一人暮らしをしていたが、家にこだわりがなく修繕をしなかったため、徐々に雨漏りがひどくなり住めなくなった[6]。このため60代後半から世田谷公園で寝泊まりし、昼間は近くのジョナサン三軒茶屋店で過ごすようになった。このため、天本に仕事を依頼する時は仕事関係者が同店に電話をかけて取り次いでもらっていた[6][注釈 2]

天本とは年齢の離れた親友であったという二瓶正也は、東宝の美術や衣装の人間らが天本の自宅や衣服の修繕を行っていたと証言している[11]

普段着にスカルキャップ・ブーツ・マントを愛用し、その姿のままで出演したドラマも多い。岡本喜八とは風貌が似ており、ロケ先で子供たちから「死神博士が2人いる!」とよく言われ、岡本は機嫌が悪かったという。

趣味は野球観戦[12]

9代目松本幸四郎(初演当時は6代目市川染五郎、現在の2代目松本白鸚)が主演を務める舞台『ラ・マンチャの男』は、当初は天本が主演を務める予定であったが、東宝の判断で人気のある6代目市川染五郎に変更された[11]

日本テレビ星雲仮面マシンマン』出演時に読売新聞のインタビュー[要文献特定詳細情報]に答えたコメントの中で、ロケに同行する過保護な子役の母親たちを批判し、「もっと子供は普段から自由に遊ばせるべきだ」と主張していて、子供好きな面をのぞかせている。また「女はめんどくさい」、「今は毎朝、“死”について考えています」などと語っていた。『星雲仮面マシンマン』については雑誌『季刊 宇宙船』のインタビュー[要文献特定詳細情報]で「子供番組なのにスタッフが子供を大事にしない」と、当時の撮影現場を批判している。

先述の大学時代に失恋した11歳年上の女性のことを思い続け、生涯独身を貫き、気ままな放浪生活と散歩を楽しんだ[6]。映画監督の金子修介によると、天本は結婚に関して「自分は特別変な人間ではないと思うけど、たまたま結婚する機会や縁がなかった」とも語っていた[6]
スペイン愛好

天本のスペイン趣味は1967年に出演した映画『殺人狂時代』にも表れている。天本が演じる溝呂木博士と仲代達矢が演じる桔梗信治との決闘シーンは、互いの左手首を縛って右手のナイフだけで戦うという「スペイン式決闘」で行われ、BGMには天本がレコードを持ち込んだファルーカが用いられた。作中では旧制高校仕込みと自称するドイツ語の会話もこなした。

1968年に公開された映画『クレージーメキシコ大作戦』(東宝 / 渡辺プロ)では山賊の頭領役で出演して、現地人はだしの流暢なスペイン語の台詞を披露している。

1979年3月から7ヶ月間にわたりスペインを旅行し[2][注釈 3]、その旅行記を1980年に『スペイン巡礼:スペイン全土を廻る』(話の特集)という著書として発表する。1982年には『スペイン巡礼』の追想記および後日譚となる『スペイン回想:『スペイン巡礼』を補遺する』(話の特集)という著書を発表した。

俳優としての活動と並行して、フラメンコ・ギターの伴奏や舞踊家によるフラメンコ舞踊を付けた編成で原詩と日本語訳との両方でフェデリコ・ガルシーア・ロルカの詩を朗誦する活動を行っていた[注釈 4]。その他にも、旅行社と協力してスペイン方面へのツアーを計画してそれを引率することもあった。

スペインには生涯で20回ほど訪れ、各地を放浪しては流暢なスペイン語で現地の人々と会話して親しくなった[6]。また、スペイン民俗音楽に関しては日本で屈指のレコード・コレクションを持つ存在として知られていた[2]。本人が生前にスペインにて収集したレコードや帽子・杖・皿を含めた工芸品など約5千点余のコレクション[6]は、現在は本人の没後に郷里である北九州市若松区にて設立された「天本英世記念館をつくる会」の有志たちによって保存・管理されている[13]

1984年には日本テレビ『星雲仮面マシンマン』で敵役「プロフェッサーK」を演じる。この役も天本のスペイン趣味が前面に出た役柄で、衣装は天本の自前によるものだった。また「Kがスペインで撮った」という設定で劇中に登場する写真も、天本が実際にスペイン旅行中に撮ったものだった。そのスペインに対する熱情のあまり、予定していたスペイン旅行の日程が撮影と重なったことを理由に、番組を途中で一時降板したほどである[注釈 5]

2001年に公開された映画『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』でも、天本が演じる伊佐山教授の衣装の多くで本人がスペインにて購入した自前のものが使用されている[6]

2002年には『Spanish Red / The world of HIDEYO AMAMOTO 天本英世の世界』(カエルカフェ)という、自身にとって最初で最後となるアルバムを発表する。本人がスペイン人と日本人について思うところを歯に衣着せずに一気に語り、その途中で「ロルカ13のスペイン古謡」[注釈 6]全13曲の中から、『セビージャの古いナナ(子守唄)』[注釈 7]など6曲の無伴奏による歌唱と各曲解説を披露するという内容だった。

自身の著書『日本人への遺言(メメント)』では「私は、スペインで死にたい。20回も訪ねて歩きまわった大好きなスペインで死にたい」と記していたが、それは叶わなかった。先述の通り、本人の生前の意志に基づいて、2005年10月25日に遺族および日本とスペインの友人たちの手によって、スペインのグワダルキビール川源流に遺灰が散骨されている。
死神博士に関するエピソード

『仮面ライダー』で天本が演じた死神博士仮面ライダーシリーズに登場する悪役の中でも屈指の人気を誇る。天本は、設定から神秘性・怪奇性を強調した大人向けの芝居を行っていたが、怖すぎるとして、演技を子供向けに抑えるよう注文されたという[15]。この役で用いた小道具の指揮棒は、本人がエジプトに旅行した際に購入したもので、「こういう役が多いもので」買い求めておいたものだそうである[15]

晩年の発言の一部から、死神博士の役を嫌っていたかのように誤解されることがあるが、天本が嫌っていたのは、死神博士のことばかりことさらに強調する一部のファンやマスコミであり、死神博士の役そのものを否定したことはない。子供のファンから請われれば喜んで「死神博士」と似顔絵入りでサインしていたことや、仮面ライダー関連の公式なキャストインタビューには真摯に応じて、衣装や演技のことなどを語っていたのがその証だが、成人後も子供向け特撮番組だけに熱中するオタクには「世の中にはもっと大切なものがある」と厳しい態度を取っていた。

NHKまんがで読む古典雨月物語』に上田秋成役で出演した際、「わしも昔死神博士として、ショッカーという妖怪軍団を率いておった」という台詞を述べたこともあり[出典無効]、晩年には新宿駅の地下街で本人とすれ違ったファンが思わず「あ、死神博士だ」と呟いたところ、天本は「左様」と答えて去っていったというエピソードもある。

2005年に公開された『仮面ライダー THE FIRST』では、『仮面ライダー』で使用された死神博士の映像に丸山詠二が新たに声を当て、デジタル出演という形で登場している[1]
『平成教育委員会』に関するエピソード

フジテレビ『たけし・逸見の平成教育委員会』の生徒役(解答者)としてレギュラーで出演し、放映開始から1993年3月の「卒業」までほぼ皆勤であった[注釈 8]国語に関してはずば抜けた好成績を修めていた反面、理数系の問題ではほとんど正解できず、算数の問題になると時に問題文を読むことを放棄し、解答する気がないような態度を示すほどに苦手としていた。


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