天文学
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紀元前164年ハレー彗星の出現を記録しているバビロニアの粘土板。

月の天体暦満月の日付の表を載せているバビロニア粘土板(en:Oriental Institute (Chicago)所蔵)

宵の明星金星に関して、24年間にわたり、日付と位置を表形式で記録している粘土板(シカゴOriental Institute所蔵)

バビロニアの粘土板で、紀元前323年-322年天体観測気象観測の記録日誌の一部であり、アレクサンダー大王が死んだということを記述している箇所。(大英博物館所蔵)
ギリシアの赤道日時計(紀元前2世紀-3世紀)。現在はアフガニスタンアイ・ハヌムにある。

バビロニアの後、古代ギリシアとヘレニズム世界において天文学はさらに進歩した。ギリシア天文学はその初期段階から、天球における天体の回転運動を物理的に説明することを目指した点を特徴とした[16]。紀元前3世紀、アリスタルコスは地球の大きさと、月や太陽の大きさと距離を計算し、太陽中心説による太陽系モデルを提案した。紀元前2世紀にはヒッパルコス歳差を発見し、月の大きさと距離を計算し、アストロラーベのような初期の天文学装置を発明した[17]。ヒッパルコスはまた、1020個の星とギリシア神話の神々の名に由来する北半球の星座のほとんどについて、詳細なカタログを作成した[18]。紀元前150?80年ごろ制作のアンティキティラ島の機械は、特定の日における太陽や月および星々の場所を計算するよう設計された、初期のアナログ計算機である。ヨーロッパにおいて、これに匹敵する制作技術の再興は14世紀の機械式天文時計の登場を待たなければならなかった[19]
中世

中世の時代、天文学は少なくとも13世紀になるまでヨーロッパでは停滞し、替わってイスラム世界などほかの地域で発展した。イスラムでは、9世紀初頭までに最初の天文台が建設され、これが寄与した[20][21][22]964年にはアブドゥル・ラフマーン・スーフィーによって局所銀河群最大の銀河であるアンドロメダ銀河天の川の中から発見され、著作『星座の書』に記録された[23]。1006年、非常に明るい等級で輝いた超新星SN 1006は、エジプトのアラビア人天文学者アリ・イブン・リドワンや、中国の天文学者らによって記録された。バッターニーサービト・イブン・クッラアブドゥル・ラフマーン・スーフィー、アブー・マアシャル、アブー・ライハーン・ビールーニーザルカーリー、ビールジャンディー(英語版)らイスラム世界の天文学者(ほとんどがペルシャやアラブ人)や、マラーゲ天文台(英語版)、ウルグ・ベク天文台などは、科学の発展に大きく寄与した。彼らが用いた星の名は、多くが現在に引き継がれている[24][25]

これらの他にも、グレート・ジンバブエ遺跡トンブクトゥ[26]天体観察をする建物があったという推察もある[27]。以前、ヨーロッパ人は植民地化される前のブラックアフリカでは天文観察は行われなかったと考えていたが、近年の発見はこの思い込みを覆しつつある[28][29][30]1539年に描かれた、プトレマイオス的な体系を示す図。地球が中心にあり、周囲に天球があり、太陽や諸惑星が回る。外側のほうに恒星がはりついている(ペトルス・アピアヌス、Cosmographia、1539年)。ドイツの地図製作者フレデリック・デ・ウィット(英語版)作の天球図(17世紀)
中世末期からルネッサンス期へ、科学革命

(惑星運行の理論に関しては)ヨーロッパ中世では、地球を中心にして太陽や他の惑星が回っているとする説(地球中心説、geocentric model)が信じられていて、惑星の逆行に関しては周転円で説明していた。

ルネサンス期、ニコラウス・コペルニクスは、太陽を中心に惑星が回っているとする説(太陽中心説、heliocentricism)を提唱した。彼の説はガリレオ・ガリレイとヨハネス・ケプラーの支持を得た。

(観測法に関しては)ガリレオは望遠鏡を使うことで天体観測に革新をもたらした[31]1616年、つまりガリレオ・ガリレイが天体望遠鏡を最初に自作してから7年後に月を観察し、記録として残したスケッチ

ヨハネス・ケプラーは1609年刊行のASTRONOMIA NOVA(邦訳名『新天文学』)において、従来の「惑星は完全な円の軌道で動く」という理論を超える「楕円の軌道で動く」という説を提唱した。そしてケプラーの法則も発表した。ただし、初めて太陽を中心とした惑星の各運動について、その詳細を説明することに挑んだが、その理論体系を構築するまでには至らなかった[32]。それに成功したのはアイザック・ニュートンであり、天体力学引力 gravitation の法則(万有引力の法則 law of universal gravitation)を導き出し、惑星運動に関する理論体系を構築してみせた。ニュートンはまたニュートン式望遠鏡(ニュートン方式の反射望遠鏡)も発明した[31]

ヨハネス・ケプラーのASTRONOMIA NOVA(『新天文学』)1609年刊行。ラテン語。惑星は楕円運動をしていると提唱し、ケプラーの法則の第一と第二を発表した書物。

ASTRONOMIA NOVAのp.132。ケプラーが、理論間の比較をしてみせているページ。上はコペルニクスが提唱した太陽中心説を解説する図、中段はプトレマイオス的な「周転円」理論の図、下段がティコ・ブラーエの観測データに基づいて導かれた実際の軌道の図。

ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』の中の、万有引力が太陽・地球・月の間にもたらす力を分析している図。Qが太陽、Sが地球、Pが月、PADBは月の軌道...などと解説している。

ニュートンが製作した二つ目の反射望遠鏡のレプリカ(王立協会所蔵)

18世紀から19世紀にかけて

さらなる発見には、望遠鏡の大きさと性能の向上が寄与した。大規模な星の一覧はニコラ・ルイ・ド・ラカーユが作成した。ウィリアム・ハーシェルは星雲と星団の詳細な一覧をまとめ上げ、1781年には天王星新発見を成し遂げた。


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