地質調査所の須貝俊彦らは、養老山地東縁から桑名市、四日市市を南北に貫く養老-桑名-四日市断層帯のボーリング調査から745年に活動して大地震を引き起こした可能性が高いとした[1][6][7]。
地震調査研究推進本部は養老-桑名-四日市断層帯の最新活動は13世紀以降の可能性があり、1586年天正地震が該当するとの指摘もあるが[6]、史料が少なく判断できないとし、一つ前の活動時期が7世紀から11世紀の間と判断され745年の地震の可能性が指摘されているが、この地震も史料が極めて少なく判断できないとしている[8]。
愛知県文化財センターの調査では、稲沢市の地蔵越遺跡において、液状化現象によると推定される砂脈が奈良時代の地層を引裂き、平安時代の地層に覆われていることから本地震の痕跡と考えられている[1]。
河角廣(1951)は岐阜市付近(北緯35.5°、東経136.6°)に震央を仮定し規模MK = 6. を与え[9]、マグニチュードは M = 7.9に換算されている。宇佐美龍夫(2003)は震央を北緯35.2°、東経136.6°とし、規模は M ≒ 7.9としている[3]。 この時期は聖武天皇が遷都を繰り返しており、旧暦で740年10月末に平城京から恭仁京、744年2月末に恭仁京から難波京、そして745年元旦に難波京から紫香楽京が都となった。しかし、同年4月の本地震が発生した数日後に紫香楽京から平城京へ戻ることとなった[10]。
その他
脚注
注釈^ 『大日本地震史料』では「平安宮」となっている。
参考文献^ a b c 寒川旭 『地震の日本史』 中公新書、2007年
^ a b 大森房吉(1913) 「本邦大地震概説
^ a b 宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年
^ 宇佐美龍夫 『日本の歴史地震史料 拾遺 二 自成務天皇三年至昭和三十九年』 東京大学地震研究所編、1993年
^ 宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年
^ a b 須貝俊彦, 伏島祐一郎, 粟田泰夫, 吾妻崇, 苅谷愛彦, 鈴木康弘(1999): 養老断層の完新世後期の活動履歴-1586年天正地震 745年天平地震震源断層の可能性 地質調査所速報, EQ/99/3, 89-102, NAID 10015208650
^ 地質調査所(2000) (PDF) 地質調査所(2000): 養老断層の完新世活動履歴 -1586年天正地震・745年天平地震震源断層の地質学的証拠, 地震予知連絡会会報, 第63巻, 6-6.
^ 地震調査研究推進本部 養老-桑名-四日市断層帯の評価
^ 河角廣(1951) 「有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値」 東京大學地震研究所彙報 第29冊 第3号, 1951.10.5, pp.469-482, hdl:2261/11692
^ “紫香楽宮の歴史”. ac-koka.jp. 甲賀市教育委員会 (2019年). 2020年5月5日閲覧。
- 1749年 古墳時代
允恭(416年、M?)
飛鳥時代
推古(599年、M?)
筑紫(679年、M7?)
白鳳(684年、M8 - 9)
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奈良時代
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平安時代
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明応関東?(1495年、M?)
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