寛文12年(1672年)、江戸の牛込川田ケ窪の屋敷で死去、享年72。墓所は東京都港区の西久保天徳寺。戒名は天崇院穏誉泰安豊寿大善女人。
林鵞峰(林羅山の子)は、勝姫の死を知った際にその人柄を「斯人少而寡、守節不妄言」(この人は若くして寡婦となったが、貞節を守って言を妄りにすることがなかった)と記している[7]。
息子の光長は高田藩主となったが、後に越後騒動で改易された。長女亀姫は高松宮好仁親王に嫁ぎ、次女鶴姫は九条道房[10]に嫁いだ。 福井藩は忠直配流後に、藩主系譜に初代秀康の次を忠昌として幕府に提出した[11]。以後、忠直事件と関係者の位置づけは、変容する。 勝姫は大変気の強い女性だったといわれる[要出典]。勝姫の孫に当たる国姫(光長の娘)を福井藩の松平光通に嫁がせるために強く工作を行い、さらに福井藩の後継者問題に光長と共に強く介入した結果、光通と国姫が共に自殺、光通の庶子の直堅が出奔するという悲劇を招いた[要出典][12]。
逸話
脚注^ 福田千鶴は、『幕府祚胤伝』、スペインのセバスチャン・ビスカイノの報告書、新井白石『藩翰譜』を典拠に慶長5年同月同日出生の可能性が高いとしている(『江の生涯』中公新書、2010年)。
^ 福田千鶴『江の生涯』中公新書、2010年。
^ a b 「家譜 忠直」越葵文庫 福井市立郷土歴史博物館寄託
^ a b “福井県史通史編3近世一
^ 山本博文 2005, p. 28.
^ 近世初期の大名と情報 2016, p. 60.
^ a b 福田千鶴『徳川秀忠』新人物往来社
^ 高田市史 1958.
^ 福田千鶴「江戸城本丸女中法度の基礎的研究」『九州文化史研究所紀要』63、p.4
^ 勝姫の異父姉・豊臣完子と九条幸家の嫡男
^ 近世初期の大名と情報 2016, p. 65.
^ 松平春岳全集 1973, p. 32.
参考文献
山本博文『徳川将軍家の結婚』文藝春秋、2005年。
福井市(編) 編『福井市史』 資料編4、福井市、1988年。
高田市史編集委員会編 編『高田市史』 第1巻、高田市史編集委員会、1958年。
松平 春嶽 編『松平春岳全集』 第1巻、原書房、1973年。
福田千鶴author-link=福田千鶴『江の生涯:徳川将軍家御台所の役割「』中公新書、2010年。
福田千鶴 編『徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』新人物往来社、2011年。
「幕府祚胤伝」(『徳川諸家系譜2』)
佐藤孝之『近世初期の大名と情報』 2012-2015年度科学研究費補助金・基盤研究(B)「十六-十七世紀の日本海地域における情報と大名、佐藤孝之〈科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書 課題番号: 24320125〉、2016年。https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-24320125/。