天動説
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16世紀、コペルニクスは『アルマゲスト』の様々な矛盾を契機にして地動説を打ち出す。この段階では、『アルマゲスト』の残滓も多く、メリットははっきりしなかった。例えば、惑星の軌道は太陽の周りをまわるものの、固定された軌道面上を動くのではなく複雑に上下し、天体の運動論は円軌道を基本としていた。またガリレオ裁判に代表される反動的な動きは、カトリックのみならずプロテスタントでも見られた。しかし、ティコ・ブラーエガリレオによる観測精度の向上や新規な事実の発見、ケプラーなどによる理論面での革新もあり、地動説は確固たる地歩を築いてゆく。このころには、アリストテレス的な自然学に替わる、月下も天界も同じ原理で統合する新たな体系が模索されていた。そして、ニュートンらの努力によって、ニュートン力学とそれに基づく太陽系の理論が作られた。
天動説の歴史
古代ギリシャの様々な宇宙論

古代ギリシアでは、様々な宇宙論があった。ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシャ哲学者列伝』第10巻によると、エピクロスは太陽などの天体の大きさを見かけ通りの小ささとし、それらの巨大さを否定した。また、夜に太陽が、昼に恒星が見えなくなる原因を不可知とし、天体の灯が消えるなどの可能性も残した。プトレマイオス『アルマゲスト』第1巻によれば、日没の説明について、無限遠まで遠ざかって見えなくなるという中国の蓋天説のような説や、灯が消えて見えなくなるとする説があったようである。

大地が動くことを仮定する理論もあった。『ギリシャ哲学者列伝』第9巻によれば、原子論の創始者レウキッポスは大地を円筒形とし、太陽その他の天体とともに宇宙の中心を周回するとした。ピタゴラス派のピロラオスは、宇宙の中心の「火」の周りを、仮想的な「反地球」、地球、月、太陽、惑星が周回するとした。地球は「火」の周りを一日で一周する[15]。また、エクパントスや前4世紀のヘラクレイデスは、地球が宇宙の中心で自転しているという説を唱えた。太陽中心説の先駆としては、紀元前280年頃アリスタルコスが宇宙の中心にある太陽の周りを地球が公転しているという説を唱えたとされる。古代末期紀元5世紀のマルティアヌス・カペラは水星と金星は太陽の周りを回るとした。

ガリレオがコペルニクスの事を太陽中心説の発明者ではなく「埋もれていた仮説を復活させて確認した人」と書くなど、地動説の時代になると、これらの説は先駆者として称揚された。ただし、これらの説が数理的な天文学の理論を伴っていた証拠はなく、どの程度具体的に現象を説明したのかは全くわからない。

評価し得るのは基本的なアイデアだけであるが、ピロラオスの理論などは、全体として「反地球」などの非現実的な要素が多く、地球の公転は天体の日周運動の説明に使われる。最もすぐれているとされるアリスタルコスのアイデアも、コペルニクス説の先駆としての内容を備えるのか否か、慎重論もある[16]

いずれにせよ、詳細がある程度伝わっている最古の数学的な宇宙の体系は、次に述べるエウドクソスの同心球体説である。
エウドクソス、プラトン、アリストテレス 

紀元前5世紀-紀元前4世紀の哲学者プラトンは、あまり組織立っていない天動説的な宇宙論を、対話篇『国家 』『ティマイオス』などで展開する。『国家』では、天界を回転する多重の円とし、その軸は地球を貫いている。地球から天体までの距離は、基本的に周期の短いものを近くにあるとし、月、太陽、水星、金星、火星、木星、土星、そして恒星の順にならべる。内惑星は太陽の影響によって、その近くからあまり離れない。外惑星がほぼ年に一度逆行することについても述べているが、その仕組みの説明はない。『ティマイオス』では、宇宙を生命体として、天体を動かすのは魂であるとする。また、四元素説を採用し、天界は主に「火」によって構成され、(物質的な世界の中では)最も神聖な領域であるとする[17]。古代においてはアリストテレスやストア派にも影響を与え、中世ラテン語世界において(とくに12世紀以前)大きな影響力があった。

紀元前4世紀、プラトンに学んだこともあるエウドクソスは、地球を中心に重層する天球が包む宇宙を考えたとされる。いちばん外側の天球には恒星が散りばめられており(恒星球)、天の北極を軸に、およそ1日で東から西へ回転する(日周運動)。太陽を抱える天球は恒星球に対して逆方向に西から東へ、およそ1年で回転する(年周運動)。太陽の回転軸は恒星球の回転軸とは傾いているために、1年の間でその南中高度が変わり、季節が説明される。恒星球と太陽の間には惑星を運行させる天球を置いた。地球から見て惑星星座の中をゆっくりと動くように見える。これは恒星球に対して惑星を運ぶ天球の相対運動で説明されたが、惑星の運行速度は一定ではなく、一時期だけ逆に動く(逆行する)こともある。逆行を説明するために、いくつかの回転方向や速度の異なる複数の天球を1つの惑星の運行に用意した。これらの天球は動かぬ地球を共通の中心とする球体であったので、地球からそれぞれの惑星までの距離は変化することはない。弟子のカリッポスは、球の数を増やして、水星と金星の理論を改良した[4][18]

エウドクソス・カリッポスの理論は、極めて単純で美しく、その成功は等速円運動の重要性と、天が球形であるとの概念を強く印象づけることになった。科学史家ノイゲバウアーが「天文学の理論で、この理論ほど深くて長く続く影響を残した理論はほとんどない」と評したほどである[19]アリストテレスの宇宙論の土台ともなり、またレギオモンタヌスなど、コペルニクスの直前まで、この理論を改良する試みは現れた[20]

同心天球説は、若干の改変を経て、プラトンの弟子のアリストテレスの宇宙像に組み入れられた。アリストテレスは、エウドクソス・カリッポスの理論の天球を、単なる数学的な便宜ではなく、実在する透明な球だと明言した。『形而上学 (アリストテレス)』第XII巻においては、天球の動く原因を「不動の動者」に求め、天球ごとに別の「不動の動者」を割り振った。内側の天球は、隣接する外側の天球の動きに引きずられ、さらに加えて固有の不動の動者から与えられた運動が合成される。これは、エウドクソス・カリッポスの理論で複数の球の回転を合成して惑星の軌道を再現しているのに対応している。そして、一番外側の天球を動かすのが「第一の不動の動者」で、単なる動力源以上の役割が与えられた[21]。後世、新プラトン主義一者や、ユダヤ教系の宗教の唯一神と同一視される。

アリストテレスの世界観においては、宇宙は四元素が絶えず転変する月下の世界と、第五元素(エーテル)で構成される不変でそれゆえに完璧で神聖な天界に二分された。両者は、全く異なる運動と変化の法則に従うとされた。天体はすべて完全に均質で完全な球形とされた。プラトンとの顕著な相違点の一つは、第五元素を設定して天界の原理をはっきりと地上の原理と区別したことである。

この理論に基づき、上空の現象のうち、不規則に見えるものを月下の現象とし、恒常的に見えるものを天界に帰した。アリストテレス自身は、流星のみならず彗星も月下の現象とされ、天の川のぼやけた光は、天体のほかに大気上層部が関与しているとした。しかし、どの現象をどちらに分類するかは古代や中世において様々な議論があった[22]。特に、天の川や月の模様に関する議論は有名である[23]超新星に関しては、月下の現象とされて、12世紀の超新星SN1006も天文学者たちの広い興味を引くことはなかった[24]

アリストテレス的な運動の理論では、地球の中心=宇宙の中心は特別な意味を与えられた。地上の重い元素はここに向かって直進し、軽い元素は遠ざかる。天体はこの点を中心に等速円運動をする。これによって、現在は重力と慣性の概念を用いて説明される現象を、ある程度は説明することができた。

地上の重力の関わる現象のうち、梃子、重心、浮力に関する一連の理論は、アルキメデスの理論も取り込んで、アリストテレス的な自然学のもと、「重さの学」として組織化され、天秤や機械の作成と運用、比重の測定などの基礎となった[25]。この中で、地球の中心は重心の定義や梃子の原理と結びつけられ、また「重さ」の概念は地球の中心との位置関係によって変わるとされた[26]
プトレマイオスの体系詳細は「従円と周転円」、「アルマゲスト」、および「クラウディオス・プトレマイオス」を参照プトレマイオスによる惑星の運動
惑星は周転円(小さな円)の円周上を等速で周回する。周転円の中心は、従円(大きな円)の円周上を、エカント点(・)から見て角速度が一定となるように動く。そして、従円の中心(x)はXは地球の中心とは異なる。

エウドクソスやアリストテレスの時代の後、バビロニアでは数理天文学がますます発展した。その成果を吸収して、ギリシャ天文学を飛躍させたのはヒッパルコスだといわれている[5]アポロニウスヒッパルコスといった先駆者の後を受けて、2世紀アレクサンドリアで活躍したプトレマイオスは天動説に基づく数理天文学を体系化し、『アルマゲスト』を著した。


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