天下
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^ 太保乃以庶邦塚君出取幣,乃復入錫周公。曰:「拜手稽首,旅王若公誥告庶殷越自乃御事:嗚呼!皇天上帝,改厥元子茲大國殷之命。惟王受命,無疆惟休,亦無疆惟恤。嗚呼!曷其奈何弗敬?天既遐終大邦殷之命,茲殷多先哲王在天,越厥後王后民,茲服厥命。厥終,智藏?在。夫知保抱攜持厥婦子,以哀?天,徂厥亡,出執。嗚呼!天亦哀于四方民,其眷命用懋。王其疾敬コ!相古先民有夏,天迪從子保,面稽天若;今時既墜厥命。今相有殷,天迪格保,面稽天若;今時既墜厥命。今沖子嗣,則無遺壽?,曰其稽我古人之コ,矧曰其有能稽謀自天?嗚呼!有王雖小,元子哉。其丕能?于小民。今休:王不敢後,用顧畏于民?;王來紹上帝,自服于土中。」(『尚書』周書 召誥)[52]
^ 吉永慎二郎によれば、殷周革命に伴う「天」の観念の論理が体系的に確認できるのは『尚書』召誥である[51][注釈 9]。ここに現れる「皇天上帝」の語は上帝を天に存在するものとして規定するとともに、「皇天」の下位概念として位置づけてもいる[53]。ここには殷人のかつての「哲王」も天命を受けた存在であったとし、その霊が天上に安んじていることを説き、しかも「哲王」に該当しない他の王は天上にいないことが示唆されている[54]。召誥において周人は殷人の親しんだ「上帝」や「先王」を自らの天上型世界観に適合的なものに変質させつつ、その権威を利用して殷人の支配に当たるとともに、周の天上型他界観を殷人に受け入れさせようとしていたことが推察されるという[55]。吉永は召誥の後半部のテキストは前半部より後代の成立である可能性も指摘しつつ、後半部のテキストは「天」の観念を最高神格として明示し、王権の正統性の法源として措定されるに至っていると考えている[56]。つまり召誥のテキスト全体を見ると、そこには前代の多神教の最高神である上帝の権威を利用しつつ提示された「天」が、やがて一神教的な主宰神・最高神格として確立されていくメカニズムが反映されているといえ、それには殷人から周人への王権の交替に伴って、殷の地下型他界観が周の天上型他界観に置き換わり、天命による王権の正統性の論理(受命思想)の確立という構造が表されている[57]。こうした周の天上型他界観は、ユーラシア大陸ステップ地帯に広く分布する遊牧系諸民族の世界観との共通性が想定されるが、そのことは、クルガン文化説に代表される近年の考古学および文化人類学知見とも整合的だという[58]
^ 子?曰,天道遠,人道邇,非所及也,何以知之,?焉知天道。(『春秋左氏伝』昭公十八年)
^ 内山俊彦によれば、「天」という文字は通常「天空、大空」を意味するが、周代には「天」はただ天空を指すのみでなく、天にある最高の神を意味する宗教的信仰のまつわる概念であった[63]。最高神としての「天」は、地上すべての事象を主宰し、とくに王朝に「天命」を与えるものとされ、地上で「天」の意志を代表するのは政治指導者である王とされ、それゆえに王は「天子」と称されて、天を祀る祭祀は、王の特権とされた[64]。春秋末期、前6世紀の宰相であった公孫喬は「天道は遠く、人道は近い[注釈 11]」という言葉を残しているが、これは「天」に働きかける手段として呪術を用いることに否定的な見解が表明されているものである[65]。中国最初の刑法の制定者ともいわれる公孫喬にとって、「天」の信仰に結びついた呪術より、現実に密着した政治が重視されているとともに、「天道」を人知によって予測することは不可能とする思想が表れている[66]。公孫喬よりやや後代に属する孔子にとっては、「天」とは神であるよりもむしろ「宇宙人法を支配する理法」として解されていると見なすことができ、孟子もこれをほぼ継承している[67]。『孟子』によれば、「天」とは人間の才能・運命や事業の成否、天下の治乱を決定する理法、さまざまな現象の背後にあってそれらをそうあらしめるものとして、説かれている[68]。孔子と孟子の見地は、「天」に理法を見出し、したがって、「天」や自然を人間の理性によって認識されうるものと考えるものであり、春秋以来の、合理的・非呪術的な思考が受け継がれている[69]。一方で、孟子の同時代人と思われる荘子は、「天」を理性を越えた万物を決定する絶対の力と考えていたようである[70]。荘子における「天」は、宇宙のなかにある超越的・絶対的で不可知な支配力というべきものとして、非理性的にとらえられており、この「天」という支配力のはたらきが、これも荘子によって説かれている「道」である[71]。この立場にあっては、宇宙のすべての現象も、かかる超越的な「天」ないし「道」を原因とするゆえに、人間の理性がそれらの真の姿を認識することは不可能、とされる[72]。荀子は、荘子の超越的な「天」の理解から、「天」は人間の認識の対象とならないという思想を受け継ぎつつ、「天」を理法とする孔子・孟子の考えを発展させ、自然現象において人知の及ばない部分については思慮・能力・洞察を加えようとしないという立場を取った(天人の分[73]
^ 浅野裕一によれば、上天・天帝は、ユダヤ教のヤハヴェキリスト教の神、イスラム教アッラーとなど同じく、感情や意志のみを持ち、身体・形象を持たない形而上的神格で、あくまでも人間を模したものであった[59]。一方で道家に代表される古代天道思想における「恆」「太一」「」は、天と同じく宇宙を主宰する存在と考えられてはいても、人間の似姿としての性質を全く持たない物質的な観念だった[60]。たとえば荘子は殷の遺民国家であるの出身であるせいもあるのか、その思想に上帝・上天信仰が全く見られない[61]。また同じく宋の出身で荘子の友人であった恵施の思想にも同様に上天信仰は確認できない[62][注釈 12]
^ ただし、「四方」は抽象的な汎称であり、少なくとも西周当初は実体を伴った「国」の単なる集積ではなかった[43]。西周後期以降、宗周鐘や毛公鼎に「四国」の語彙が出現する[43]
^ 周王朝では「克殷」以前すでに「王」号を称しており、西周時代を通じて「王」号は周の君主の正式な称号として使用され続けたが、一方で「天子」号は西周中期の共王時代以降、周の現君主に対する独占的な称号として使用され始めた[74]。「天子」号そのものの機能は「王」と異なり、文王の受命神話を中心とした天命思想に関わるものであった[75]。すわなち、「王」号が王畿内から「四方」へという水平面における君主の権威を象徴したのに対し、「天子」号は上方にある天上世界と下方にある地上世界という垂直軸における権威を象徴していた[75]。なお、吉本道雅によると、のちの「天下」観念に通じる、天と対置される「下或(国)」「下土」という表現が西周後期後半に現れる[43]
^ 050《金文講座》063 榮[借字]?一を読む - YouTube
^ 榮?(?侯?・周公?・周公?)を読んでみます。これ、美文字で、派手ですから、是非臨書にトライして。是非! - YouTube
^ 042《金文講座》051 獻?を読む - YouTube
^ 献?〔けんき〕(獻?、献?、獻?)、さあ、読んでみましょ?書く前には、しっかり内容把握ですよ? - YouTube
^ 053《金文講座》066 麥尊を読む - YouTube
^ 高島敏夫によれば、そもそも「天子」は西周前期において必ずしも周王に限って使用された用語ではない[77]。「周公?[注釈 16][注釈 17]」「獻?[注釈 18][注釈 19]」「麥方尊[注釈 20]」において、周王以外が「天子」として言及されている[78]。これらでは周王の宗教的権威を受けた周王以外の君主を「天子」として言及している[79]。しかし、西周中期以降は天の思想の浸透とともに、「天子」は周王のみを指すようになる[80]
^ 高島敏夫によれば、王号は実際には西周の全時期において、周王以外に少なからぬ数存在しており、「王」号は周王の独占物でなかったと考えられる[84]
^ 高島敏夫によれば、「天子」とは「天の御子」を意味し、超越神である「天」の存在を前提とした用語である[76][注釈 21]。殷代には甲骨文にも金文にも「天子」の語が現れないが、それは殷王朝では宗教的秩序における至高神は「帝」であって、「天」ではなかったからである[81]。そして「天子」という語はこうした天との関係を前提とした宗教的権威に関わる用語であって、王朝という政治共同体の代表者を意味する「王」と同列に語れるような称号ではない[82]
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