天下
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^ 5世紀後半から6世紀初頭にかけて、ヤマト政権は内政と外交両面に渡る政治的危機を克服しながら、部民制やミヤケ制、国造制などの支配組織を整えていったが、このような動きと連動して東北地方の人々を「エミシ(毛人)」と呼び、大王への服属を強いるようになる[305]。『日本書紀』敏達天皇紀には毛人の族長綾糟が、大和政権の守護神である三輪山の神に向かって服属の誓約を行ったという、毛人の朝貢記事が見られるため、遅くとも6世紀後半頃には、毛人の族長と大王の間でこのような服属儀礼が始まっていたと考えられている[306]。ヤマト政権による「毛人」観の成立は国造制の施行と関連しており、各地の有力首長とその管轄領域がヤマト政権の支配に組み入れられる中、その支配地の北方にいる人々が「毛人」として一括りに認識されるようになったと考えられている[307]
^ こうした高句麗の動きは先行する五胡十六国の胡族国家に触発されたものである[313]
^ 川本芳昭によれば、4世紀から5世紀には、中国王朝外の周辺領域にある国家が自国を「中華」と自称する動きが見られるようになるが、その嚆矢は高句麗である[312][注釈 104]。高句麗はその支配領域に元漢の楽浪郡の漢人を含み、君主は「太王」を名乗って、独自に年号を立てた[314]。高句麗は自らを「天帝の子」と称したが、それは完全に中国の受命思想と一致していたわけではなく、高句麗独自の神話的世界に基づいていた[315]。しかし一方で、高句麗独自の神話世界が、「天」や「天帝」といった中国の用語で表現されたことには注目が必要で、ここには高句麗自体が中国文化を受容し、中国思想のフィルターを通して自らの神話世界を語っているという屈折した側面が表れている[316]。また高句麗は好太王碑にあるように、百済や新羅を属国視し、自らに朝貢し、太王に跪く(「跪王」)する存在であると表明している[317]。当時の高句麗に対する朝貢が、中国王朝に対する朝貢と全く同じものであったとは考えられないが、高句麗王が百済や新羅の服属関係を「朝貢」関係と表現・認識していることには注意を向ける必要がある[318]。当時の高句麗は百済や新羅に「跪王」という独自の服属儀礼を課していたと思われるが、その関係全体は中国思想を用いて「朝貢」という用語によって表現されるものと同質であると認識したのである[319]。高句麗は新羅を「東夷」とも呼んでいる事実も考え合わせると、この時代の高句麗は年号の使用、「朝貢」の採用、「天下」の認識を備えていたと考えられ、高句麗は当時の倭国に先んじて「中華」意識を形成し始めていたと考えられる[320]。こうした「中華」意識の芽生えは高句麗だけでなく、百済や新羅にも見られる[321]
^ 鈴木靖民によれば、倭王武が中国とは別に独自の「天下」を構想したことや、宋に対し、高句麗に匹敵する「開府儀同三司」の地位を求めたことは、従来高句麗との対抗関係を主要因として考えられており、それ以前の倭王の外交との継続性の中で捉えられてきた[322]。しかし、当時倭はむしろ百済に対する国際的上位に立とうとしていたという熊谷公男の説を考慮すると、5世紀後半の北魏による宋への圧迫の強化、北魏と結ぶ百済への高句麗の攻勢といった、宋、百済の劣勢が477年の宋への入朝につながったと考えられ、倭国の「天下」構想にも影響しており、倭の外交は5世紀中葉に転機を見るべきで、5世紀後半の倭の外交はそれ以前とは区別されるべきではないかという見方を示している[323]
^ 水林彪によれば、倭王の王権はその盟主的地位を中国的「天」観念によって正当化していたが、その盟主は4・5世紀になると、自らを「王」に上昇・昇華させようとしたときに、新たに中国皇帝による権威づけを必要としたという[325]。しかし、倭王武は中国皇帝と外交交渉で決裂したために、大王は中国皇帝に依存しない権威・権力秩序を構築することを余儀なくされ、それが大王を「治天下大王」とする観念につながったという[326]
^ 河内春人は倭王武が朝貢をしなくなった5世紀末から6世紀前半の朝鮮半島の対立軸が、以前の高句麗・百済・倭国の鼎立から、高句麗対百済・新羅という形勢に変化したことに注目し、東アジアでの倭国のプレゼンスの低下を想定し、さらに『古事記』に雄略前後の天皇の没年が書かれていない事実も鑑み、中国外交の停滞は継体天皇即位前後の倭国内の政治混乱が反映されているとした[328]
^ 河上麻由子は倭国が武以降中国南朝に朝貢しなくなった理由を、河内春人にしたがって倭国内部の混乱に求めている[327][注釈 108]
^ 通説では5世紀以降、倭王権は自らの支配領域を「天下」と認識し、中国を中心とした国際秩序からの自立を進め、「東夷の小帝国」として朝鮮諸国や隋唐帝国との国際関係を維持したと考えられている[293]。通説的な理解は、倭王武の南朝宋への上表文中に現れる「天下」の語を、同一人物と比定されるワカタケル大王に言及する同時期の稲荷山古墳鉄剣銘などの金石文に見られる「治天下大王」の「天下」と関連づけ、「中国的天下」と区別された独自の「倭的天下」観念が倭王権周辺で形成・共有されていたとする西嶋定生・鈴木靖民らの説に基づく[294]。この説に基づけば、倭王武の上表文中に見られる「毛人」は東北地方の住民であった「蝦夷」と同一実体と見なされるが、これは当時の列島の歴史的実態にも即して構築されている[295]石母田正は律令法規定を基礎として「東夷の小帝国」論を展開したが、この説はその枠組みを5世紀にまで遡らせるものとして接続されて理解されてきた[296]。この説の難点としては、武の上表文に見られる毛人に関する記述と六国史など日本側史料に基づく蝦夷に関する記述の間に齟齬があり、両者を同一とするのが困難なところである[297][注釈 102]。また、田中聡によれば、こうした「小帝国」的な理解は、国家・王権を主語として文明的に均質な倭人社会が存在したかのような考え方を前提としがちで、倭人社会が周辺社会を一方的に包摂していくといった、静態的な古代文明史論に陥る可能性があるという[300]。近年は蝦夷や琉球人などの自立性や独自性に注目する研究も増えており、そこでは倭王権の一方的な対外膨張とは異なった、列島周辺の民族集団間の対立や国家間の戦争による大量移住などの大規模な地政学的変動によって引き起こされる支配領域の不安定化に対応するため、東アジア各王朝や主要な民族集団が一時的な介入行動をとり、その都度調整を行って安定を維持するという動態的な状況が把握されつつある[301]
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