天下
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^ たとえばずっと真夜中でいいのに。の「あいつら全員同窓会」の中国語訳タイトルは「那些家??的校友会」である。
^ 日中歴史共同研究での中国側委員の見解に基づくと、古代中華文化の発展過程および中華民族の形成過程で、内在する自己意識は絶えず向上し、さらに不断に純化して主体精神を形成したという[27]。古代の、根本的に地球と世界の事実を知るすべを持たない状態においては、当時地球上に存在していたどの民族もすべて、自らの生活上で目にするものの範囲を、「世界」や「天下」と見なした[28]大航海時代以前のあらゆる民族は自らの生存域の地球上における相対的位置など判断しようがなかったと考えられるのであるから、自らの生存域を世界の中心とする観念から免れることができたわけがない[29]。今の世代の研究者は現代の知識で構築された世界観や宇宙観によって、中国の先人たちの天下観を責め、彼らがただ自己の天下を知るのみで世界があることを知らなかったことを責めるが、純粋に理性的で学術的な態度に則って歴史と照らし合わせる側からすれば、それは明らかに歴史文化の文脈を見失ってなされた判断であるという[30]
さらに中国側委員は華夷の弁別について歴史言語学に基づいたという意見を表明しており、それによれば、古代の華夏人は、自己の文化の精髄を「」と呼んだが、それは「夏」が漢民族の始祖王朝であったからであり、文化心理上の祖先回帰というべきものだという[31]。「華」は「夏」の美称で、光と輝きの意を表す[32]。華夷の弁別の本質的な意義は、華夏文化と非華夏文化との区別を求めることにあるが、この範疇で「華夏」の対立軸となる「夷」とは、「等輩」「儕輩」のような平等的な意味であり、俗語の「那些家?(あの連中、あいつら)[注釈 4]」という他者意識の意味を含んでいる[33]。つまり、古代の華夏人(漢族)に対して、華夷の弁別によって自己の天下観を構築したことを理由にして絶えず拷問し、華夏人が春秋時代以来、所謂「五千里内皆王事に供す」という「大中国」観を持っていたことを責めることは、理論的な根拠を失っているという[34]
^ ただし、殷代甲骨文に現れるこれら「四土」「四方」は領域の汎称ではなく、祭祀の対象となる神格の汎称である可能性があることには注意が必要である[43]。西周金文においても大豊?・保?・保尊に現れる「三方」「四方」は祭祀の対象を指しており、神格を表していると思われる[43]。吉本道雅によれば、領域概念としての「四方」は周人の発明であり、殷人の間にそれに相当するものは、少なくとも形式的には存在しなかった[43]
^ 吉永慎二郎によれば、殷代の卜辞において「天」は「大」の意味で使われており、殷代には上天・天神に使われた用例はない[46]。そして、殷代に見られる「上帝」は、そこに現れたる「上」を「上天」の意味として解釈する見方が多いが、殷代の「下上」が「帝」と置き換え可能な語として使用されている実態を考えると、実際にはここでいう「上」は「諸神の上」の意と解釈すべきであって、しかも帝の常態は他の祖神と同様、地下世界として観念されている「あの世」に存在するものと考えられるという[47]。吉永は、殷人がしばしば「土」を祀っていることなど愛着を示していることや死人を地下深くに埋葬し、封土を盛らない殷墟の墓葬からも、殷人の他界観は地下世界を観念するものとして形成されており、周人の天上世界を重視する他界観とは異なっていたとする[48]。殷代の卜辞および図象記号から窺える「天」の観念は、白川静がかつて論じたように「顛」すわなち人頭の意味であるか、あるいは林巳奈夫が論じたように女性型天候神であり、帝の配下にある多神教的な神の一つに過ぎないと考えられる[49]。したがって、ここには周以降のように「天」を一神教的な主宰神として見たり、「上天」を聖なる場所として考える思考は存在しない[50]
^ 帝あるいは上帝は殷代に最高神として信じられていた存在で、その最大の能力は自然神に命令して降雨を発生させ、穀物の実りを左右することであった[45][44][注釈 7]。帝は自然神や祖先神よりも優位にあり、人間は直接祀ることすらできない至高の存在と考えられていたため、甲骨文字では帝に対する直接の祭祀儀礼はなく、「帝雲」や「帝臣」などを通して祀っている[44]
^ 太保乃以庶邦塚君出取幣,乃復入錫周公。曰:「拜手稽首,旅王若公誥告庶殷越自乃御事:嗚呼!皇天上帝,改厥元子茲大國殷之命。惟王受命,無疆惟休,亦無疆惟恤。嗚呼!曷其奈何弗敬?天既遐終大邦殷之命,茲殷多先哲王在天,越厥後王后民,茲服厥命。厥終,智藏?在。夫知保抱攜持厥婦子,以哀?天,徂厥亡,出執。嗚呼!天亦哀于四方民,其眷命用懋。王其疾敬コ!相古先民有夏,天迪從子保,面稽天若;今時既墜厥命。今相有殷,天迪格保,面稽天若;今時既墜厥命。今沖子嗣,則無遺壽?,曰其稽我古人之コ,矧曰其有能稽謀自天?嗚呼!有王雖小,元子哉。其丕能?于小民。今休:王不敢後,用顧畏于民?;王來紹上帝,自服于土中。」(『尚書』周書 召誥)[52]
^ 吉永慎二郎によれば、殷周革命に伴う「天」の観念の論理が体系的に確認できるのは『尚書』召誥である[51][注釈 9]。ここに現れる「皇天上帝」の語は上帝を天に存在するものとして規定するとともに、「皇天」の下位概念として位置づけてもいる[53]。ここには殷人のかつての「哲王」も天命を受けた存在であったとし、その霊が天上に安んじていることを説き、しかも「哲王」に該当しない他の王は天上にいないことが示唆されている[54]。召誥において周人は殷人の親しんだ「上帝」や「先王」を自らの天上型世界観に適合的なものに変質させつつ、その権威を利用して殷人の支配に当たるとともに、周の天上型他界観を殷人に受け入れさせようとしていたことが推察されるという[55]。吉永は召誥の後半部のテキストは前半部より後代の成立である可能性も指摘しつつ、後半部のテキストは「天」の観念を最高神格として明示し、王権の正統性の法源として措定されるに至っていると考えている[56]。つまり召誥のテキスト全体を見ると、そこには前代の多神教の最高神である上帝の権威を利用しつつ提示された「天」が、やがて一神教的な主宰神・最高神格として確立されていくメカニズムが反映されているといえ、それには殷人から周人への王権の交替に伴って、殷の地下型他界観が周の天上型他界観に置き換わり、天命による王権の正統性の論理(受命思想)の確立という構造が表されている[57]
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