天下
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注釈^ 西嶋定生は1962年に発表した「六―八世紀の東アジア」で、中国王朝を中心とする政治体制により東アジアの国際関係が動かされていたことを論証し、東アジア諸国の国際関係を規定している秩序として「冊封関係」があることを明らかにした[8]。西嶋によれば、「東アジア世界」が歴史的に自己完結的な世界として存在したことの前提として「冊封体制」の構造があったとされる[9]。「冊封」とは、元来は封建制の基本理念であり、封土を分かち与えてその地域の君長に任命するという辞令書を授与することで、本来は中国の国内秩序を示していた[10]。しかし、漢王朝以降、中国の国内秩序の外延として、周辺諸国に中国王朝の皇帝から、王侯に封ずる冊書とその名称を刻んだ印章が賜与され、その支配地が中国王朝の皇帝からの封土と見なされた[11]。こうして周辺諸国の君長が理念的に皇帝と君臣関係を結ぶことによって、皇帝と周辺諸国の君長との間に中国国内の君臣関係の論理が適用される関係によって成り立つ国際秩序体制が「冊封体制」である[12]。周辺国は冊封によって中国皇帝の権威を借りて国内的権威を確立し、周辺国との外交においても有利に立つことができ、中国皇帝の側は外国の冊封によって国内の君臣関係の秩序維持が補強され、さらに冊封国の出兵要請などを受け入れることで、中国王朝の権威を冊封国以外にも示すことができた[13]。こうして中国王朝と周辺諸国が官爵の授受を通じて結ばれることで、そこに発生する文化の伝播も含めて「冊封体制」として論じられた[14]1970年の「総説」では世界史の構成要素として「東アジア世界」を設定し、前近代の日本を包含する「東アジア世界」を中国文化圏として完結したものとして提示し、その共通文化の要素は「漢字文化」「儒教」「律令制」「中国化した仏教」の4つとされ、中国を中心に朝鮮・日本・ベトナムという地域が主として該当するとされた[15]。こうした「東アジア世界」の形成については、中国の中央集権化と周縁への拡大、および周辺民族の一定の発展が前提に必要になるが、中国側の支配論理としては華夷思想と封建制の成立が特に重要とされた[16]。西嶋は漢代の儒教の国教化と周辺諸国への郡国制の拡大により、冊封体制が成立し、隋唐時代にその政治的・文化的一体性が完成されるが、唐王朝の滅亡後にいったん「東アジア世界」は崩壊し、東アジアでは民族ごとの独自文化が叢生し、冊封体制は解体されるものの、東アジア交易圏ともいうべき経済的国際関係が形成されたとする[17]1973年の「東アジア世界」では、華夷思想と王化思想について関係性が論じられ、華夷思想は礼の有無により中華と夷狄を差別する思想であり、王化思想は逆に差別したものを結合させる思想で、礼を知らない遠方の夷狄が天子の朝廷(天朝)に徳を慕って来朝すること(慕化来朝)が、人民を感化させ(徳治主義)、権威の源泉となるとする考え方とされた[18]
^ 1949年松本新八郎が日本の律令国家を「世界帝国」的性格を有するとする「世界帝国」論を提起すると、石母田正はこれに対し、1962年、「日本古代における国際意識について」を発表し、4世紀末から10世紀の日本は、一方で朝鮮諸国を自らに朝貢させ、服属させようとしつつ、一方で中国王朝には蕃夷の一国として朝貢するという複合的な支配・被支配の関係の中にあったと位置づけた[19]。石母田によれば、4世紀末以来、倭は「任那」を直轄領として植民地支配を行い、百済・新羅に対しては朝貢国として服属させ、中国の南朝に対しては朝貢することで、「大国」としての国際的地位の確立、すなわち「東夷の小帝国」として国際的に承認される政策をとったとし、6世紀の「任那」滅亡によりこの小帝国は事実上解体し、推古朝以後、朝鮮諸国に対する支配は形式的・名目的なものとなり、奈良時代末期の新羅の朝貢停止、すなわち小帝国からの離脱により「遺産」と化したとする[20]。つまり、この段階での「小帝国」論はあくまで列島の支配層の対外意識として論じられていた[21]1963年の「天皇と『諸蕃』―大宝令制定の意義に関連して」では、「東夷の小帝国」を維持するために制定された大宝律令により、唐を「隣国」、朝鮮諸国・渤海を「蕃国」、蝦夷・隼人を「夷狄」とする「化外」の三区分が法的に固定化されたこと、そして、大宝遣唐使の使命が唐に対して「東夷の小帝国」=「日本国」の承認を得ることにあったとした[22]。石母田は天皇の称号は中国の「皇帝」に代位するもので、諸蕃の上位に位置し、従属せしめる日本の王権の国際的地位と権威を標示する意図を含む称号であったとしている[23]。石母田は1971年の『日本の古代国家』以後、「東夷の小帝国」という用語を「東夷の大国」という用語で置き換え、「小帝国」を使わなくなる[24]
^ 東アジアと呼ばれる地域を一体として考える「東アジア世界」論における構造的理解の枠組みとしては西嶋定生の「冊封体制」論[注釈 1]石母田正の「東夷の小帝国」論[注釈 2]が国際関係の構造理解を規定してきた[25]
^ たとえばずっと真夜中でいいのに。の「あいつら全員同窓会」の中国語訳タイトルは「那些家??的校友会」である。
^ 日中歴史共同研究での中国側委員の見解に基づくと、古代中華文化の発展過程および中華民族の形成過程で、内在する自己意識は絶えず向上し、さらに不断に純化して主体精神を形成したという[27]。古代の、根本的に地球と世界の事実を知るすべを持たない状態においては、当時地球上に存在していたどの民族もすべて、自らの生活上で目にするものの範囲を、「世界」や「天下」と見なした[28]大航海時代以前のあらゆる民族は自らの生存域の地球上における相対的位置など判断しようがなかったと考えられるのであるから、自らの生存域を世界の中心とする観念から免れることができたわけがない[29]。今の世代の研究者は現代の知識で構築された世界観や宇宙観によって、中国の先人たちの天下観を責め、彼らがただ自己の天下を知るのみで世界があることを知らなかったことを責めるが、純粋に理性的で学術的な態度に則って歴史と照らし合わせる側からすれば、それは明らかに歴史文化の文脈を見失ってなされた判断であるという[30]
さらに中国側委員は華夷の弁別について歴史言語学に基づいたという意見を表明しており、それによれば、古代の華夏人は、自己の文化の精髄を「」と呼んだが、それは「夏」が漢民族の始祖王朝であったからであり、文化心理上の祖先回帰というべきものだという[31]。「華」は「夏」の美称で、光と輝きの意を表す[32]。華夷の弁別の本質的な意義は、華夏文化と非華夏文化との区別を求めることにあるが、この範疇で「華夏」の対立軸となる「夷」とは、「等輩」「儕輩」のような平等的な意味であり、俗語の「那些家?(あの連中、あいつら)[注釈 4]」という他者意識の意味を含んでいる[33]
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