天下人と呼ばれたのは、いずれも武士である。つまり、武力を背景として武家政権を興したものが天下人とされてきた。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
朝廷の臣下として振る舞う
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天下人は例外なく朝廷の臣下という形を取り政治の実権を握った。彼らは皇室(天皇または上皇)を頭の上に戴いて事業を進めていたといえる。武家政権が出現した頃には、皇室は次第に権力を失いつつあり、権威だけを保有する方向に向かっていた。それでも、皇室は六十余州(日本全土)の主であった。
朝廷の臣下としての天下人は、征夷大将軍のような武官コースを取る場合と、関白や太政大臣といった文官コースを取る場合とがあったが、天下人自体にそれらはあまり関係のないことであり、一定のポストに就かなければ天下人と見られないわけではない。
源頼朝、足利尊氏、徳川家康は征夷大将軍になっているが、豊臣秀吉は関白となる道を選んだ。織田信長の場合、天正3年(1575年)、右近衛大将となり、内大臣、右大臣へと進んだが、その後は無官となっている。朝廷から関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれかへの推挙をしたいという要望があったくらいである(三職推任問題)。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
政権が「全国性」を持っている
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天下統一とは、上述の通り、日本全国を統一して一元的に支配することである。秀吉と家康の政権は、名実ともに全国政権であった。頼朝の場合、領国的な支配は東国中心であったが、御家人制によって全国的に人を支配していた。尊氏になると、南北朝の時代になっており、お互いを正当な政権であると主張していたが、北朝を擁した足利家の武家政権は、終始、公家である南朝政権より強力であり、日本の中心部である京都をほぼ支配していた。信長の政権も、畿内を含む京都とそこにいる朝廷を押さえていた。その意味においては、全国性を持っていたことになる。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
天下人になるための条件
天下取りの意欲がある
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天下人になるためには、まず天下人になろうという意欲があることである。しかし、その意欲がどのくらい強固なものであったかは、別問題である。頼朝にしろ、尊氏にしろ、中央政権(公家政権)とは違う新しい政権を樹立しようという意欲は、その時々の事態が進行してからである。
また、天下取りという意欲を持てば誰でも天下を望める風潮が出てきたのは、戦国時代になってからのことで、それを目指す者の中で何人かの者だけが、ある段階で天下取りへの意欲を持つようになり、そのうちのまた何人かが成功したというのが実情であろう。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
一定の軍事力・経済力を備えている
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天下人の政権は、それを樹立するに当たって妨害を排除し、ライバルを圧倒するだけの軍事力がなければ成り立たない。政権樹立後も、抵抗しようとする者たちを押さえて、これを維持していくための武力が必要である。しかし、その軍事力は、必ずしも自前のものとは限らないし、そうである必要もない。軍事力は数あるいは質の問題なのである。
経済力も天下取りの重要要素である。日本では、経済力は農業生産力、ことに米の生産力が主流である。米は貨幣と同様に通用する便利な商品であった。とはいえ、諸大名も将軍も米ばかりを当てにして動いていたわけではない。平清盛は日宋貿易に力を入れていたし、足利義満も日明貿易に熱心だった。