大韓民国
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ハンナラ党鄭夢準議員や宋永仙議員は北朝鮮への対抗上、韓国は核武装を進めるべきだと述べている[84][85]2013年2月、李明博大統領は韓国国内から核武装論が出ていることについて、「愛国的で、高く評価する」「北朝鮮と中国への警告になり、間違っているとばかり言えない」と述べた[86]

その他にも外国への核拡散関与が発覚することもある。2005年には大韓民国の放射性アイソトープ販売企業であるキョンド洋行が、イラン企業のパトリス社に放射性物質であるニッケル63を売ったほか、フランスからは別の放射性物質である三重水素(トリチウム)を買い入れ、パトリスに売り渡していたことが報道された。
国際関係詳細は「大韓民国の国際関係」、「大韓民国の在外公館の一覧」、および「南北等距離外交」を参照緑色で塗られた国は大韓民国と国交があり、灰色で塗られた国は大韓民国と国交がない。

大韓民国は、国際連合加盟国のうち193か国と国交を結んでいる。2024年2月時点で国交のない国連加盟国は朝鮮民主主義人民共和国シリアの2か国である。国交締結国のうち、特にアメリカ、中国とは経済または軍事のいずれかの面で結びつきが親密となっている。
朝鮮民主主義人民共和国との関係詳細は「朝韓関係(英語版)」、「朝鮮統一問題」、および「北朝鮮による韓国人拉致問題」を参照

1948年8月15日の朝鮮半島南部における大韓民国建国以来、翌月の1948年9月9日に朝鮮半島北部にて建国された朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とは「朝鮮唯一の正統な国家」としての立場をめぐり、敵対的な関係が続いた。2013年3月6日付の朝鮮労働党機関紙『労働新聞』が「米帝核兵器を振り回せばわれわれは精密核打撃手段でソウルだけでなくワシントンまで火の海にするだろう[87]」と大韓民国とアメリカ合衆国を並べて非難したように[88]、北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国は南韓、大韓民国を「米帝傀儡」だとみなし(「南朝鮮傀儡」)、特に米韓合同軍事演習実施のたびに関係が悪化する。

1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争以後、朝鮮半島の分断は決定的となった。強硬な反共主義者であり、「北進統一」論を掲げていた初代の李承晩大統領は、軍事力による朝鮮半島統一の可能性を断ち切らなかったため、1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定国連軍と中朝連合軍の間で署名された際も、北側は朝鮮人民軍南日大将が署名したのに対し、南側はアメリカ軍のウィリアム・ハリソン・Jr中将が署名し、大韓民国の要人は休戦協定に署名しなかった。朝鮮戦争休戦後も初代大統領の李承晩や朴正煕、全斗煥らによる軍事政権は強固な反共主義政策を実行し、1987年6月29日民主化宣言まで朝鮮民主主義人民共和国が「対南工作」で派遣したスパイや、大韓民国国内の共産主義者に対しては「国家保安法 (大韓民国)」やその他の法令に基づき厳重な取り締まりが行われた。ただし、1987年の民主化以後は「国家保安法」の存在にもかかわらず、大韓民国にも政治集団として朝鮮民主主義人民共和国と朝鮮労働党の指導理念である「主体思想」を支持する「主体思想派」が存在する。また、1990年代北朝鮮の経済が崩壊し、北朝鮮で「苦難の行軍」と呼ばれる飢餓が発生したあとには「脱北者」と呼ばれる亡命者が南朝鮮、大韓民国に流入している。

大韓民国政府は1万人を超える「北派工作員」を北朝鮮に送り込み多くの犠牲を出している[89]1971年8月23日に発生した実尾島事件はこの「北派工作員」派遣の過程で発生した事件であった。朝鮮民主主義人民共和国政府もさまざまな手法で韓国に対する「対南工作」を行っており、青瓦台襲撃未遂事件ラングーン事件文世光事件で大韓民国大統領の暗殺を謀ったり、イ・スンボク事件江陵浸透事件などで大韓民国への侵入事件を引き起こしている。また、大韓航空機YS-11ハイジャック事件などで韓国国民の拉致事件を引き起こしており、大韓航空機爆破事件では韓国国民を標的とした無差別テロ事件を引き起こしている。また陸上の軍事境界線や海上の北方限界線をめぐっては、南北分断以降、1976年ポプラ事件1999年第1延坪海戦2002年第2延坪海戦2009年大青海戦2010年天安沈没事件延坪島砲撃事件などの武力衝突が断続的に発生している。

このような中、統一に向けた努力が試みられているが、実を結ぶには至っていない。1960年四月革命によって学生と市民が李承晩初代大統領を退陣させたあと、同1960年8月14日に朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相は南北朝鮮統一のために「連邦制統一案」を発表、両政府代表による「最高民族委員会」の結成を提唱し、初めて具体的な平和統一案を提出したが、大韓民国の張勉首相がこの提案を検討することのないまま、翌1961年5・16軍事クーデターによって朴正煕少将が軍事政権を樹立したため、この提案は流れてしまった[90][91]1972年ニクソン大統領の中国訪問によってそれまで敵対していた米中関係が改善した結果が南北朝鮮に波及したため、同1972年7月4日に大韓民国の朴正煕大統領と朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相は共同で南北共同声明を発表したが、その後朴正煕大統領が維新クーデターでさらなる権力集中を進め、また1973年金大中事件で大韓民国国内の民主派を弾圧する姿勢を維持したため、以後北側からの南北間の対話は途絶えた[92]。なお、金大中事件直前の1973年6月23日に朴正煕大統領は「平和統一外交宣言」を、金日成主席は「祖国統一五大方針」をそれぞれ提出しているが、国際連合同時加盟問題に対する南北両政府の主張の隔たりの大きさが浮き彫りになる結果に終わっている[93]

1979年10月26日朴正煕暗殺事件が発生したあと、翌1980年5月に5・17非常戒厳令拡大措置によって全斗煥将軍が実権を握ると、同1980年10月10日に朝鮮民主主義人民共和国の金日成主席は、軍事政権である大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の両国間の政治体制の相違を乗り越えて低い段階での連邦制を実現するため、「高麗民主連邦共和国」創設を提示した[94]

冷戦終結以後は雪解けが進み、1991年の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の国際連合同時加盟や南北基本合意書に結実した。


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