大韓民国
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1950年代末には米国系多国籍企業が進出し始め、その後の60年代後半には日本系多国籍企業も加わり、70年代にはこれら直接投資が石油関連化学工業と機械工業に集中して増加し経済成長する[注釈 8]
朴正煕時代詳細は「第二共和国 (大韓民国)」、「第三共和国 (大韓民国)」、および「第四共和国 (大韓民国)」を参照1961年5.16軍事革命当時の朴正煕.

李承晩の失脚後、張勉内閣の下、政治的自由化が急速に進展したが学生を中心とした北への合流を目指した南北統一運動が盛り上がりを見せるに至り、危機感を抱いた朴正煕少将をはじめとした軍の一部が1961年5月16日クーデターを決行し、国家再建最高会議 が権力を掌握した。第三共和国憲法の承認後、朴正煕は1963年10月に第5代大統領に当選 した。1963年12月5・16軍事政変を主導した朴正煕らによって第3共和国が樹立された。1960年代の開発独裁の一環として政府は軽工業中心の輸出主導型発展とベトナム戦争派兵などを通じた外貨獲得で経済発展を実行した。1970年代には重化学工業と電子産業を集中的に育成した。 しかし、都市と農村の所得格差、低賃金労働と貧富格差のような問題も残した。

朴正熙は1969年の憲法改正で、大統領の3選を可能とした(3選改憲)。3選目に挑んだ1971年の大統領選挙で野党候補の金大中に約95万票差まで追い上げを受け、さらに直後の総選挙で野党が国会の1/3を超える議席を獲得したことで、朴正熙は不安を感じた。その対応として1972年7・4南北共同声明を発表する一方、政権の合法的延長が難しくなったと判断してその3か月後の10月17日非常戒厳令を発して11月に憲法を改正(第四共和国)、大統領の直接選挙を廃止して、自らの永久政権化を目指した。これによって、大統領の任期を6年再任制に修正したうえ、国会議員を大統領に任命できる法案まで可決させるなど、大統領の権限を非正常に拡大させた。この変更は「統一を準備する」という名目でおこなわれ、維新体制と呼ばれた。これに対して、労働運動界、学生勢力が民主化を求めるが、政府は相次ぐ緊急措置を通じて抑制した。しかし、民主化運動勢力と労働運動家の反発は続いた。 米国が韓国の「人権侵害」を批判し始めると、韓米間に外交摩擦が起きた。 第2次オイルショックまで経験し、経済危機と内部混乱が大きく加重した。維新体制の時期には、反対派に対する激しい弾圧(金大中事件民青学連事件など)により政治的自由が著しく狭まったが、1979年10月26日、側近の中央情報部長により朴正煕は暗殺された。

朴正煕時代は強権政治の下、朝鮮戦争以来低迷していた経済の再建を重視した。一方で朴政権は人材登用や産業投資に際し、自身の出身地である慶尚道を優遇し、全羅道に対しては冷遇をしたため、慶尚道と全羅道の地域対立、差別の問題が深刻になった。この問題は今に至るまで解決していない。
全斗煥・盧泰愚時代詳細は「第五共和国 (大韓民国)」を参照1988年のソウルオリンピック.

朴正煕の暗殺により、急速に規制が解かれた韓国の政治はソウルの春と呼ばれる民主化の兆しを見せたが、1979年12月12日より始まった粛軍クーデターにより、全斗煥陸軍少将をはじめとした「新軍部」が軍を掌握した。新軍部の権力奪取の動きに対して反対運動が各地で発生したが、80年5月17日非常戒厳令拡大措置が発令され、政治活動の禁止と野党政治家の一斉逮捕が行われた。5月18日光州では戒厳軍と学生のデモ隊の衝突が起こり、これをきっかけに市民が武装蜂起したが、5月27日、全羅南道道庁に立てこもる市民軍は戒厳軍により武力鎮圧された(光州事件)。新軍部は朴正煕暗殺後に大統領の職を引き継いでいた崔圭夏8月16日に辞任させ、全斗煥が大統領に就任し、憲法を改正。翌81年2月25日に行われた選挙により全斗煥が大統領に選出された。1987年、大統領の直接選挙を求める6月民主抗争が起こり、与党の盧泰愚大統領候補による6.29民主化宣言が引き出されたため、大統領直接選挙を目指した改憲が約束された。しかしながら、12月に行われた大統領選挙では、野党側の有力な候補が金泳三金大中に分裂したために、全斗煥の後継者である盧泰愚が大統領に当選し、軍出身者の政権が続くこととなった。全斗煥、盧泰愚の時代は、軍政に反対する民主化運動とそれに対する弾圧の激しい時代であったが、朴正熙時代から引き続いた高度な経済成長と、1988年ソウルオリンピックの成功、中華人民共和国ソビエト連邦1990年9月30日)との国交樹立[49]国際連合への南北同時加盟などにより新興工業経済国として韓国の国際的認知度の上がった時代でもあった。
文民政権登場以後詳細は「第六共和国 (大韓民国)」を参照2002年FIFAワールドカップ.

1990年金泳三が率いる統一民主党金鍾泌の率いる新民主共和党とともに盧泰愚政権の与党である民主正義党と合同(「三党合同(朝鮮語版)」)し、巨大与党である民主自由党が発足した。金泳三は1992年大統領選挙に民主自由党の候補として出馬し当選した。金泳三は久しぶりに軍出身者でない文民の大統領であったが、旧軍事政権と協力したために実現したものだった。しかしながら、金泳三政権時代に、全斗煥、盧泰愚元大統領らに対する軍事政権下の不正追及が開始された。1997年大統領選挙では、長年にわたって反軍政・民主化運動に関わってきた金大中が大統領に当選した。金大中政権において民主化・自由化は本格化し、国家安全企画部の改組、民主労総の合法化などが行われた。民主労総を支持基盤とした民主労働党が結成され、のちに国政進出を果たした。対北朝鮮政策も「太陽政策」のもと2000年6月南北首脳会談を実現させ、分断された鉄道の連結や経済協力など南北融和が進み、近い将来の統一の期待を膨らませた。金大中は日本文化の開放も進め、日韓ワールドカップの共催を頂点に日韓の友好ムードは高まった。2002年大統領選挙で当選した盧武鉉は支持基盤的に金大中の後継であり、政策も引き継いだ。朴槿恵大統領退陣運動

2007年大統領選挙に当選した李明博2012年大統領選挙に当選した朴槿恵により、再び政権は慶尚道系保守勢力へ戻り、各種政策も揺り戻しが起こっているが、民主的政体は大韓民国においてもはや定着していると言える。2017年3月には民主化以降初めての大統領弾劾が成立して朴槿恵が失脚。5月の大統領選挙文在寅が当選し、再び革新系に政権が戻った。

2022年大韓民国大統領選挙では、尹錫悦が当選した[50]
年表

大韓民国成立後の歴史は、憲法(大韓民国憲法)による政体の相違によって、七つの時代に区分される。
1945年 - 1948年:アメリカ軍政庁期連合軍軍政期、非独立)
1948年:済州島4・3事件。1948年5月10日:南朝鮮単独での初代総選挙が実施される。1948年7月12日:大韓民国憲法が制定され、7月17日に公布される。
1948年 - 1960年:第一共和国期


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