朝鮮半島が日本の統治から解放された1946年直後に帰国した大韓民国臨時政府の金九派の幹部は、韓国民主党ら国内の民族主義指導者との会合において、「国外で独立運動に献身した者の以外は、就中、日帝治下の朝鮮半島で生きていた者なんぞは、全員親日派だ」と罵った[7]。 1919年10月に統合された臨時政府は国務総理に李東輝を選出し、1921年に李東輝が臨時政府を去ると李東寧・申圭植
組織
大韓民国臨時政府の地方組職は朝鮮国内の連通府と交通局があり、海外には居留民団組職があった。連通府と交通局は朝鮮北西地方に結成され、江原道と忠清道の一部には大韓独立愛国団、中部以南では大韓民国青年外交団が代行した。この時大同団、ソウルの大韓民国愛国婦人会、平壌の大韓愛国婦人会・大韓赤十字会も大韓民国臨時政府と関係で活動した。また、居留民団組職は上海などの中国本土にのみ存在し、アメリカとメキシコ・フランスでは大韓人国民会の組職、満州では大韓民国臨時政府傘下に結成されていた西間島の西路軍政署と北間島の北路軍政署の組職が各自代理した。戦争終結直前の地方組職は重慶の居留民団と米州の大韓人国民会、中国本土に点在する光復軍となっていた。
中央組職は1941年10月光復軍司令部を設置し、国務委員会は主席・金九、内務・趙?九、外務・趙素ミ、軍務・趙成煥、法務・朴賛翊、財務・李始榮、秘書長・車利錫で構成され、顧問制度を採択して宋秉祚・洪震が推戴された。1945年には国務委員会と行政各部の二重構造に改編された。政府職員は1946年5月に109人であり、重慶在留の韓国人は600人位だった。 財政的には、初期には1919年にモスクワに派遣された全権大使の韓馨權(???)が. 次第に強盗行為なども行うようになった[8][9]。1939年以降は中国政府から臨時政府に支給された支援金が主な財源であった。 1919年5月24日、「大韓民国臨時憲章
財政
指導理念
12月29日には「大韓民国建国綱領」が発表された[12]。これは趙素昴の影響が強く、社会民主主義的な国家像を目指したものであった[13]。
また、1937年に安益泰がウィーンで作曲した愛国歌を国歌として採用した。この愛国歌は大韓民国の国歌として継承される(異説有)。 大韓民国臨時政府大統領
歴代の首班
大統領一覧
1李承晩1919?5月23日 - 1926? 5?1926年に弾劾
2朴殷植1926?1926年に病死
3李相龍1926年 - 1927?
4李東寧1927年
5洪震1927年9月-1月
6金九1928年1月 - 1928年5月
7金九1928年5月 - 1928?9月
8李東寧1928年9月 - 1931?
9李東寧1931年 - 1934?
10梁起鐸1934年 - 1936?
11李東寧1936年 - 1940?
12李東寧1940年 - 1941年5月1941年に病死
13金九1941年5月 - 1940年10月
14金九1941年10月 - 1945年5月