大隈重信
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同志社大学社友[5]

通貨・の制定、日本初の鉄道敷設[6][7]政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。

早稲田大学を創設し官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ。また、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、成瀬仁蔵と共に日本女子大学を創設[8]立教大学の発展にも携わった[9][10]
略歴

幕末佐賀藩上士の家に生まれて志士として活躍し、明治維新期に外交などで手腕をふるったことで中央政府の首脳となり、参議大蔵卿を勤めるなど明治政府の最高首脳の一人にのぼり、明治初期の外交・財政・経済に大きな影響を及ぼした。明治十四年の政変で失脚後も立憲改進党憲政党などの政党に関与しつつも、たびたび大臣の要職を勤めた。明治31年(1898年)には内閣総理大臣として内閣を組織したが短期間で崩壊し、その後は演説活動やマスメディアに意見を発表することで国民への影響力を保った。大正3年(1914年)には再び内閣総理大臣となり、第一次世界大戦への参戦、勝利し、対華21カ条要求などに関与した。また教育者としても活躍し、早稲田大学1882年東京専門学校として設立)の創設者であり、初代総長を勤めた[11]。早稲田大学学内では「大隈老侯」と現在でも呼ばれる[12]
生涯
生い立ち佐賀県佐賀市に現存する大隈の生家(国の史跡に指定)佐賀藩士時代の大隈

天保9年(1838年)2月16日、肥前国佐賀城下会所小路(現・佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行400[13](物成120石[13][14][注釈 2])を食み、石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。幕末の上士出身で明治後半まで活躍した元勲には井上馨板垣退助後藤象二郎ら総理大臣には就けなかった者が多いが、大隈は数少ない例外である。

重信は7歳で藩校弘道館に入校し、『朱子学』中心の儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館の南北騒動をきっかけに退学となった[16]。このころ、枝吉神陽から国学を学び、枝吉が結成した尊皇派の「義祭同盟」に副島種臣江藤新平らと参加した。のち文久元年(1861年)、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任したが、実際には講義は殆ど行わず、議論や藩からの命を受けて各地で交渉を行うなどの仕事をしている[17]

文久2年(1862年)より、副島種臣、前島密らと共に米国聖公会のアメリカ人宣教師チャニング・ウィリアムズ立教大学創設者)の私塾で英学を学ぶ[18][9][19][注釈 3]。ウィリアムズの私塾で儒学者の谷口藍田と知り合い、その後深く交遊していく[21]

大隈は、長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するにはいたらなかった。慶応3年(1867年)、長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「蕃学稽古所」(翌年、致遠館と改称[22])の校長で、オランダ出身の宣教師グイド・フルベッキ英学を学んだ。このころにアメリカ独立宣言などを知り、大きく影響を受けた。致遠館では、舎長・督学の副島種臣と共に教頭格となって指導にあたった。また京都と長崎を往来し、尊王派として活動した。慶応3年(1867年)、副島とともに将軍徳川慶喜大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛のうえ佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。謹慎後、大隈は鍋島直正の前に召され、積極行動を呼びかけたが容れられなかった[23]
明治維新時の活躍長崎時代の大隈重信(前列中央)。左端は伊藤博文、右端は井上馨。後列左より久世治作、中井弘。撮影・内田九一

慶応4年[注釈 4]1868年)、幕府役人が去った長崎の管理を行うために、藩命を受けて長崎に赴任した[23]。長崎では有力藩士との代表とともに仮政府を構成していたが、2月14日には朝廷より長崎裁判所総督澤宣嘉と参謀井上馨が赴任、引き継ぎを行った[24]。まもなく裁判所参謀助役として、外国人との訴訟の処理にあたった。3月17日、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。大隈の回想によれば、井上馨が「天下の名士」を長崎においておくのは良くないと木戸孝允に推薦したためであるという[25]。当時隠れキリシタンの弾圧である浦上四番崩れについて、各国政府との交渉が行われており、大隈はイギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮し、この問題を一時的に解決させ、政府内で頭角を現すこととなった[26][27]。この交渉の成功は、ウィリアムズとフルベッキから学んだ英学とキリスト教の知識の恩恵であった[20]。また、交渉には谷口藍田が同行している[27]。12月18日には前任の小松清廉の推挙により、外国官副知事に就任した[28]
新政府での活動「大隈財政」も参照壮年期の大隈

明治2年(1869年)1月10日、再び参与に任じられ、1月12日からは会計官御用掛に任ぜられた[29]


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