大隈重信
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「あるんである」、もしくは「あるんであるんである」という言い回しを好んで用いた[注釈 10]

現在残されている大隈の関連文書はすべて口述筆記によるものであり、大隈自身の直筆のものは存在しない。これは弘道館在学中に字の上手な学友がいて、大隈は字の上手さでその学友に敵わなかったため、書かなければ負けることはないと負けず嫌いで字を書くことをやめ、以降は勉強はひたすら暗記で克服し、本を出版するときも口述筆記ですませ、死ぬときまで文字を書かなくなったためと言われている。しかし、大日本帝国憲法発布の際には内閣総理大臣以下国務大臣の副署は自署でなければならず、当時、外務大臣であった大隈の貴重な直筆が残っている。御署名原本の中の内閣総理大臣以下国務大臣の副署にある「大隈重信」の文字だけがあまり達筆ではないことがみられる[184]。大隈は漢字とカナが混在しタイプライターが使用困難な日本語について「(ヨーロッパに比べ)三倍以上損をしている」と評している[185]

外交官として実績を持つ大隈は、英語文を読むことはできず、訳文を読んで判断を行った[186]。蘭学寮時代には「勘」でオランダ語解読を行っており、優秀な成績を上げていたという[187]。また700ページほどのオランダ語で書かれたナポレオン伝記を、1年半かけて読破したという[188]

高田早苗は大隈との初対面時(1882年4月)の印象として「一大人物」に見えたが「親みがたい峻烈の感じ」もしたと述べており[189]、大隈の豪放磊落なイメージは時間をかけて徐々に形成されていったものとみられる。

友人であった五代友厚は、明治11年(1878年)ごろに大隈への忠告の手紙を書いている。そこには自信家で、他人の意見をあなどり、怒気を荒げることをやめるようにとある。明治14年(1881年)の政変以降はそのような言動を慎むようになった[190]

尾崎行雄は「一度聞いたことは決して忘れなかった」「大蔵省時代は、予算書をすべて暗記していた」と記憶力が優れていたとしたほか[191]、理知・大度量においても伊藤や山縣を遥かに凌駕していたとしている[192]。しかし政治的にはほとんど失敗続きであったとしており[193]、その原因は大隈の性格にあったと見ている。尾崎は伊藤と大隈が碁を打った際のことを例に出し、こう例えている。伊藤は大隈より碁が下手であったが、「伊藤公は最初から余程慎重に考えて打つのに、大隈侯の方は、何も考えずに大まかにポンポン打つ。そうしている内に、だんだん局面が不利になってくると、侯はそこで初めて考える。もとより頭脳の良い人であるから、妙な窮手を考え出して、どうかこうか血路を拓くことはあるが、侯が考えるときには、既に局面が収拾すべからざる状態にまで立ち至っているのだから、結局負け碁になることが多かった。伊藤公は、初めから定石通りに、十分慎重に考えて打つから、破綻が少なく、大隈侯は難局に向わなければ、智慧を出さないのだから、天才的な閃きはあっても、結局は敗けることになる。これが両君の性格における著しい相違であった」[194]

人間関係
伊藤博文との関係

伊藤博文との関係は複雑であった。時には政敵となり、時には連携しているが、基本的に大隈は伊藤を高く評価している[195]。明治30年(1897年)、大隈は大磯に別邸を構えたが、この別荘から西へわずか60メートルの地所には当時、伊藤が本邸を構えていた。さまざまな政治上の軋轢があった相手との近い距離のためか、大磯別邸はあまり使用されず、明治40年(1907年)には別邸を新たに国府津に構え、わずか10年で引き払われた。大隈と同郷で、彼に目をかけられた行政法学者・織田萬のエッセイ集[196]によると、早稲田大学開学式典で伊藤が「大隈は流石にえらかった、永世不朽の育英の大事業に眼を着けたことには、この伊藤はたゞ頭を下げる外はない」と述べたことに満悦したという。また伊藤がハルビンで暗殺されると、「なんと華々しい死に方をしたものか」と羨みつつも悲しみ、大泣きに泣いたとのことである[197]
元勲との関係

伊藤と同様、
井上馨ともに複雑な関係を持った。もともと中央に大隈を推挙したのは井上であり、留守政府時代に井上は大隈に、「あなたの他に信じて従っていく人はいない、真の友人と思う」と書簡を出すほど親しかった[198]。明治6年4月の政変では井上を見捨てる形となったが、以後も交流は続いている[199]。第二次大隈内閣では元老中で最も大隈を支持したが、任期途中に病没した。大隈は井上のことを「兎角憤りっぽく気難しいため首相に向かない」としながらも、なかなかの粋人であると評している[200]

大久保利通とは、木戸派時代には対立し、それ以降もむしろ伊藤に近かかった大隈だが、後年の回想では「大苦労を重ね」「建略を用い」「偉人となった」政治家として絶賛している[201]

西郷隆盛は大隈を「俗吏」とみなして嫌っていたとされ、特に明治4年(1871年)の西郷上京の際に書かれた『西郷吉之助意見書』では、名指しこそ避けたものの大隈の政策を「武士のやることではない」と切り捨てた。さらに同年、西郷の推挙で大蔵省入りした安場保和が大隈への弾劾意見書を提出したこと(西郷も大久保もこれには反対したために却下された)によって、大隈の西郷への反感は抜きがたいものになったとされる。大隈は西郷について、尊敬はしていたが、政治家的な能力に欠けるとし[202]、「人情には極めて篤かった」[203]が、政治に関しては任せきりであったと、人格面での評価はしても政治家としては評価していない[204]

大隈重信は、第一の政治家として木戸孝允を挙げている。最も感心したことを「長州出身なるに拘わらず、薩長の専横を憤ってこれを抑えられた一事」だといい、木戸はつねに「もし二藩の人をして跋扈せしめたならば、幕府の執政と異なったことは無い、既に三百藩を廃して四民平等となしたる以上は、教育を進めて人文を開き、以て立憲国になさなければならぬ」と口にしていたと『大隈伯百話』で述べている。

大隈は、岩倉具視と伊藤博文とで朝の8時から夜の11時ごろまでそれぞれ4?5升ほど酒を呑んで語り明かしたという談話を残している。『明治の初年に、或る時、朝の八時から岩倉公と伊藤と我輩と三人が飲み始めた、山尾庸三は酒が飲めないから、燗番で酒の燗をして居る、三人で飲み且つ語って、夜の十一時頃迄に、各々四五升も平らげたが、我輩は未だ中々酔わなかった、然るに岩倉も伊藤も弱い者だから酔って喧嘩を始めた、岩倉が「貴様が足軽の癖に生意気なことを言う」と伊藤を叱咤すると、伊藤が「何だ、青公卿に天下の形勢が分かる者か」と罵り返した、双方共に酔っておるものだから、言葉が荒くなったのだ、スルと岩倉が大いに立腹して「参議の一人たる伊藤から、青公卿なるが故に天下の形勢は分からぬと言われては、上御一人に対し奉りて相済まぬから、止むを得ず右大臣を辞する」と言い出した。二人は酔っておるから、こんな事になったのだ、そこで我輩は岩倉に向かい「それは面白い、早速辞表をお書きなさい、不肖ながらこの大隈が、陛下へお取次ぎを致そう」と切り出すと、燗番をしていた山尾が、驚いて飛んで来て、マアマアと双方をなだめたことが有る、其の頃から酒も気力も我輩が一番強かった』[205]

福沢諭吉との関係

大隈の回想によれば、当初福澤諭吉は大隈のことを「生意気な政治家」と嫌っており、大隈のもとに挨拶に行こうとしなかった。このため大隈は福沢を「傲慢な奴」と言って互いに会うことを避けていた[206]。ある日[注釈 11]、大隈はある会合に出向くと、そこに福沢がおり、話してみると2人は意気投合したという[206]。福沢は明治11年(1878年)、慶應義塾の経営打開のため政府から25万円の無利子融資を受ける交渉を行っているが、この仲介役となったのが大隈であった[206][207]。また福沢は仲介を行っていた炭鉱売却事業に、大隈の介入を要請して成功させている[208]。大隈の側近となった矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅は慶應義塾出身であった[209]

明治十四年の政変では、大隈は福沢と連携したと見られて失脚し、矢野、尾崎、犬養らも下野することになった[210]。しかしこの事件によって、かえって福澤との絆は堅固なものとなり、政変後に設立された東京専門学校の開校式には福澤の姿があった。また、福澤の葬儀では福澤家は献花を断っていたが、大隈からの献花に対しては黙って受け取った[197]
その他の人物との関係大隈庭園大隈邸を訪れた米国ワシントン大学野球チーム(1921年秋、前列右から飛田穂洲、2人はさんで安部磯雄塩沢昌貞、大隈重信)


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