大隈重信
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^ 「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」大日本帝国憲法第19条
^ 事件直後、現場を通りかかった高木兼寛により最初の処置が行われ、その後に駆け付けたドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツ佐藤進、伊東方成、岩佐純池田謙斎らと高木による協議で右足の切断が決定された[77]。その右脚切断手術は佐藤やベルツにより行われ、その後の大隈は義足を着用した。この際に大隈が失った右脚は、アルコール漬けにされ大隈邸にて一時保管後、消費されるアルコール代が高額で手間がかかるため赤十字中央病院に寄付された。更にその後日本赤十字看護大学にて由来不明となったままでホルマリン漬けで保存(経年のため変色が認められるものの生きているかのようであったという)されていたが、1988年(昭和63年)由来判明後に早稲田大学で保管され、1999年(平成11年)に故郷である佐賀市の大隈家菩提寺の龍泰寺にて安置(保存のための樹脂加工済)されている。
^ 大隈は「留任の大命を受けた以上は自分の意志で進退を決めるわけにいかない。とやかく言うのはほとんど君主権を犯すもの」と当時述べた[155]
^ 「大隈が口舌の徒であるという評価は、明治・大正の人には常識だったようである。大隈は、しばしば、その演説を『我が輩は』で始めて、『あるんである』、時としては『あるんであるんである』で結んだ。ただの口癖と言えばそれまでであるが、少なくとも、言葉を節して、一言半句無駄なことを言うのを忌む人には、とうていできないことである」とある[183]
^ 大隈自身の回想では明治7年(1874年)ごろとなっているが、大隈はこの際に伊藤と井上馨に福沢を紹介してふたりとも意気投合したと記述しており、伊藤之雄は内容から見て明治3年(1870年)ごろではないかとみている(伊藤之雄 & 2019上, p. 254)

出典^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「大隈重信」
^ 早稲田大学古典籍総合データベース
^ 2020年9月4日付スポーツ報知?菅義偉官房長官、大隈重信、原敬、犬養毅に続く報知新聞発4人目の総理誕生へ…法大時代にアルバイト
^ 藤本大士「医療宣教師トイスラーの文化外交 : 1911‐1917年の聖路加病院国際病院化計画における日米政財界の協力」『アメリカ太平洋研究』第20号、東京大学大学院総合文化研究科附属グローバル地域研究機構アメリカ太平洋地域研究センター、2020年3月、75-91頁、ISSN 1346-2989。 
^ 大隈重信100年アカデミア『同志社の新島襄を情熱的にサポートする』
^ “早稲田大学・ニュース『大隈重信の出身地・佐賀県にて「早稲田の聖地さが」記念プレート設置式開催(7/30』”. 2022年8月20日閲覧。
^ 明治のイノベーター 大隈重信 - YouTube
^ 大隈重信100年アカデミア『「女性にもっと活躍してほしい!」という想いから、日本女子大学設立委員長に』
^ a b 『東京朝日新聞』1919年6月1日
^ 川崎晴朗「築地外国人居留地の「予備地」 : 米国聖公会が入手するまで」『史苑』第64巻第1号、2003年、120-131頁、doi:10.14992/00001549。 
^ 国立国会図書館『近代日本人の肖像』大隈重信
^ 早稲田大学・雄弁会
^ a b 国史大辞典ジャパンナレッジ版)「大隈重信」、2022年4月2日閲覧。
^ 筒井 2018, p. 132
^ 生馬寛信、中野正裕. “安政年間の佐賀藩士:藩士名簿『早引』、『石高帳』にみる”. 佐賀大学文化教育学部研究論文集 14(1)、1-56、2009年8月. 
^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 17-18.
^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 41-42.
^ 大江満「パネル展示報告 立教創立者の遺品 : 京都教区寄贈ウィリアムズ資料」『立教学院史研究』第11号、立教大学立教学院史資料センター、2014年、140-154頁、doi:10.14992/00009283、ISSN 1884-1848、NAID 120005445074。 
^ 日本郵政『前島密年譜』
^ a b 『大隈侯昔日譚』 大隈重信 著 円城寺清 編 新潮社 1922年 127-129頁
^ 森田正『近代国家「明治」の養父 : G.F.フルベッキ博士の長崎時代』長崎外国語大学 2016年3月
^ “ ⇒佐賀藩関係年表”. 佐賀城本丸歴史館. 2023年2月10日閲覧。
^ a b 伊藤之雄 & 2019上, p. 59.
^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 65.
^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 68.
^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 70-78.
^ a b 古谷昌二 平野富二とその周辺 大隈重信、平野富二の事業を支援した人(その3)
^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 85-87.
^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 88-89.
^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 88-90.
^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 94.
^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 95.
^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 103.
^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 111.
^ a b 伊藤之雄 & 2019上, p. 112.
^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 114-116.
^ a b c 『大隈重信自叙伝』岩波文庫。 
^ a b 松田裕之『高島嘉右衛門』日本経済評論社、2012年8月10日。 
^ 『鉄道の歴史 時空旅人Vol.19』三栄書房、2014年5月号臨時増刊。 
^ a b “「国鉄のレール幅を決めた大隈重信「一生一代の不覚」とは?」”. 2021年12月21日閲覧。
^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 143.
^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 161-170.

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