4人の少将、アートマス・ウォード、チャールズ・リー、フィリップ・スカイラー、イズラエル・パットナムと8人の准将、セス・ポメロイ、リチャード・モントゴメリー、デイビッド・ウースター、ウィリアム・ヒース、ジョセフ・スペンサー、ジョン・トーマス、ジョン・サリバン、ナサニエル・グリーンが数日の内に指名された。ウォードとヒースはマサチューセッツ民兵の出であり、既にケンブリッジ駐屯軍に在籍していた。ポメロイは指名を辞退し、その跡は埋められないままになった。
大陸会議は独立した主権国家の立法府として徐々に責任を引き受け政策を出していたので、大陸軍の役割は相応の議論の対象となった。アメリカ植民地人の間には常備軍を維持することに一般的な嫌悪感があった。一方で、イギリスとの戦争遂行には近代的な軍隊の規律と組織を必要としていた。その結果、軍隊は幾つかの明白な段階を経て、部隊の公式な解体と再編成によりその性格を与えられた。
大陸軍の兵士はこの軍隊への従軍を志願した(給与はあった)市民であり、独立戦争の様々な段階でその標準的徴兵期間は1年間から3年間だった(戦争初期は大陸軍が恒久的な軍隊に変わることを大陸会議が恐れたので短期間だった)。総勢は17,000名以上に達することはなかった。特に1776年から1777年に掛けての冬などは兵士の出入りが常に問題となり、徴兵期間を長くすることが認められた。大まかに言って、大陸軍は幾つかの連続的な変化を経ている。
1775年の大陸軍:元々のニューイングランド軍からなる。ワシントンが3個師団、6個旅団、38個連隊に組織化。スカイラー少将がカナダ侵攻作戦にニューヨークの10個連隊を派遣。
1776年の大陸軍:1775年軍隊の兵士が徴兵期間を終えた後に再編成されたもの。ワシントンが最高司令官を引き受けた直後に大陸会議に推奨した形態だが、大陸会議での検討と実行に時間を要していた。ニューイングランド以外にも募兵を拡げる試みであったが、その構成や地理的な注力のために北東部に偏ったままだった。この軍隊は36個連隊からなり、最も標準的な部隊は768名からなる1個大隊で、640名の兵卒からなる8個中隊に編成された。
1777年から1780年の大陸軍:イギリス軍が独立戦争に決着を付けようと大部隊を送ろうとしていることが明らかになった時の幾つかの大きな編成替えと政治的決断の結果。大陸会議はそれぞれの邦が人口に応じて1個大隊の連隊を提供することを命じる「88個大隊決議」を通し、ワシントンは別に16個大隊を作ることを認められた。また、徴兵期間がそれまでの1年から3年または「戦争が終わるまで」に延長され、年の瀬に起こっていた軍隊崩壊を避けられるようにした(1776年暮れには軍隊がほとんど崩壊状態になり、戦争を終わらせてしまう可能性があった)。
1781年から1782年の大陸軍:アメリカ植民地軍の大きな危機。大陸会議が破産状態になり、3年の徴兵期間が終わった兵士を再雇用できなくなった。一般大衆の戦争に対する支持が最低の時期にあたり、ワシントンがペンシルベニアとニュージャージーの派遣部隊での反乱を鎮圧しなければならなかった。大陸会議は大陸軍の予算を削ることを議決したが、ワシントンは戦略的に重要な戦いで勝利を収めることがた。
1783年から1784年の大陸軍:今日まで続くアメリカ陸軍に受け継がれる時期。イギリスとの停戦が成立し、ほとんどの連隊が規律正しく解体された。
大陸軍の正規兵の他に、個々の植民地(邦)によって組織化され予算も付けられた民兵組織があり、戦闘にも参加した。時には民兵の部隊が大陸軍と離れて行動することもあったが、多くは大陸軍が作戦を実行するときの支援や増援であった。民兵は撤退が早すぎるという評判があった。カウペンスの戦いではこのことを逆手に取ってうまく戦略に結びつけた。
兵士への給与、食料、宿泊設備、兵装、兵器などの装備に対する財政的な責任は、各邦にその部隊の設立ともども割り当てられた。各邦はこの義務を果たすやり方が異なっていた。戦争中は財政を保つことや兵士の士気を保つことが常に問題であった。このことで兵士達には低い給与、腐った食糧、重労働、寒いときも暑いときもお粗末な兵装と宿泊設備、厳しい訓練および負傷または戦死する高い確率を課すことになった。 1775年6月、ボストン包囲戦中に大陸軍がケンブリッジで結成された時、およその戦力はニューイングランドの14,000名から16,000名と見られている。脱走などがあって実際の戦力は11,000名程度であった可能性もある。ワシントンの到着までは、アートマス・ウォードの指揮下にあり、ジョン・トーマスが副隊長、リチャード・グリドリーが砲兵隊長と技師長を兼ねていた。 ボストンのイギリス軍は援軍が到着してその数を増していた。その数は約10,000名であった。5月遅くにはウィリアム・ハウ、ヘンリー・クリントン、ジョン・バーゴインの3将軍が到着してトマス・ゲイジ将軍と合流し、反逆者達を追い払う計画を立て始めた。実戦経験のあるこれら将軍やイギリス海軍の数隻の戦列艦を指揮するサミュエル・グレイブス提督の存在に意を強くしたゲイジは、戒厳令を発して大陸軍とその支持者達を反逆者と決めつけ、憲法を犯す者として糾弾する宣言を行った。大陸軍や大陸会議への忠誠を放棄しイギリス側に付いた者には恩赦が提案されたが、大陸会議のサミュエル・アダムズやジョン・ハンコックの二人だけは大逆罪で指名手配されていた。この宣言は、大陸会議と大陸軍の決意をさらに強固なものにするために役だったに過ぎなかった。 1776年3月、大陸軍がボストンを見下ろす高地に大砲を運び上げたことで、イギリス軍がボストン市から撤退した後、大陸軍はニューヨークに移動した。それに続く5年間、大陸軍とイギリス軍は、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルベニアで作戦行動を続けた。これらの作戦行動には、トレントン、プリンストン、ブランディワイン、ジャーマンタウン、モリスタウンなどの特筆すべき戦闘が含まれている。 大陸軍は人種的には差別を無くしており、このような状態が再現されたのは朝鮮戦争のときまで無かった。アフリカ系アメリカ人の奴隷はニューイングランドでの従軍と引き換えに自由を約束され、北部方面軍の5分の1にまでなった[4]。 大陸軍は常に乏しい兵站、不適切な訓練、短期間の兵役、邦間の摩擦、そして大陸会議の各邦に対する食料、金、物資を賄うように指導する力の不足に悩まされ続けた。当初、兵士の兵役服務期間は1年であり、多くは愛国心に動機付けられていた。しかし、戦争が長引くにつれて、報奨金やその他の刺激策がより必要になった。戦争の後半には2つの大きな反乱が起こり、主力部隊のうちの2部隊の信頼性をひどく損なうことになった。また常に規律不足の問題につきまとわれた。 大陸軍は試行錯誤の末に、多くは人命を犠牲に、実効性と成功率を高めた。ワシントン将軍と他の傑出した士官達が結束を固めるための有益な指導者となり、戦争の8年間を通じて学び、適応し、規律を保っていった。1777年から1778年にかえての冬は、プロイセン出身のストイベン男爵が加わり大陸軍を訓練して大きくその能力が改善された(バレーフォージの冬として知られる)。ワシントンは軍隊を常に一時的な手段として見ており、第二次大陸会議と同様に軍隊の文民統制を心がけたが、その実行方法については小さな意見の不一致があった。 戦争末期、大陸軍はフランスのロシャンボー将軍指揮下の遠征隊とフランス海軍のバラス提督指揮下の船隊によって補強され、1781年の晩夏には、主力部隊がバージニアに南下してフランスのグラス提督配下の西インド諸島艦隊と合流した。これがヨークタウン包囲戦につながり、チェサピーク湾の海戦での勝利とイギリス南部方面軍の降伏という結果を生んだ。これによってアメリカ大陸での戦いは終わりを告げ、2年後のパリ講和条約締結とその効力が有効となるまで、大陸軍はニューヨークのイギリス北部方面軍を封じ込めるためにニューヨーク近郷に戻って駐屯した。その後は大陸以外の場所で、イギリスとフランスおよびその同盟軍の間の戦いが続いた。 戦後は小さな地域軍隊が、ウエストポイントと幾つかの辺境の前哨基地に残された。1784年6月3日、大陸会議を引き継いだ連合会議がアメリカ陸軍の創設を決議した。 平時軍隊への移行計画はアレクサンダー・ハミルトンが議長を務めた連合会議委員会の要請で1783年4月に始まっていた。
作戦の展開
大陸軍の解隊とアメリカ陸軍の創設