近世大坂の町は江戸幕府の派遣した大坂町奉行支配のもとに北組・南組・天満組の三組に分かれ、総称して大坂三郷と呼ばれた。北組・南組は現在の中央区の本町通を境に分かれ、天満組は北区の大阪天満宮を中心とする一帯である。なお、天満は元和年間頃まで大坂とは別の町とみなされていた。大阪の旧市街地は沽券地として、江戸幕府から町人間で譲渡が許されていた。
古代?近世にかけ現在の大阪市中心部はその姿を整えた。現在も続く以来の大阪の町は、上町・天満・堂島・中之島・船場・島之内・堀江・下船場などが知られている。 江戸時代中期には「大坂」と「大阪」が併用され、明治維新後の1868年、新政府はもとの大坂三郷に大阪府を置いた[3]。元来の「大坂」に代わって「大阪」が正式な表記となったのは、このころである[注釈 1]。「阪」は「坂」の異体字のなかでも古字とされる字であり、阜部(読み:ぶぶ、意味:こざとへん)は小高い土山・丘陵を意味する。 鳥羽伏見の戦いの後、大久保利通により、大阪に遷都する旨の建白書が出された[7]。これは、諸外国との外交、富国強兵策、内戦の指導権の把握、海軍の建設などの点で最適であるとした内容だった[7]。また、財政的基礎を持たない明治政府にとって、京阪一帯の政商資本家との結びつきを考慮したものでもあった[7]。しかし、これが実現しないうちに、慶応4年(1868年)3月、前島密による江戸奠都の建言が出され、最終的に大久保もこれに同意し、江戸への奠都が決定された[8]。 明治維新の直後は廃藩置県によるいわゆる「大名貸」の貸し倒れや地租改正による金納化(結果的には農民による米の自由売買につながった)によって、大阪経済は大きな打撃を受けたが、経済産業の近代化とともに次第に西日本経済の中心地としての地位を確立していくことになる。 1869年には北・南・天満の三郷から東・南・西・北の4大組に再編され、1875年に大区小区制が施行されると、順に第1?4大区となり、1879年に郡区町村編制法が施行されると、再び東・南・西・北の4区となった。 1889年には市制施行により大阪府管内の大阪市となる(市制特例参照)。 難波津後退以来1000年以上にわたって内陸の都市だった大阪は、1897年の第一次市域拡張によって大阪湾に面する市域となり、海港の造成(第一次大阪港修築工事)も同年にスタートした。1925年の第二次市域拡張では東成郡・西成郡の残余44町村全てを編入し、首府の東京府東京市(現・東京都区部)を人口で追い抜き、日本最多の人口を有する都市となった。また、世界でも6番目の人口を誇る主要都市となり、ここに大大阪時代が到来した。 しかし1932年に東京府東京市が周辺町村の合併による市域拡大によって、人口で再び大阪市を追い抜いたため[注釈 2]、大大阪時代はわずか7年で終焉した。 1955年の第三次市域拡張では河内国の範囲にあたる6町村を編入し、ほぼ現在の市域となった。後年に湾岸部の埋立造成が拡大し、市域はさらに広がったが、これ以降編入合併による市域拡張は行われておらず、政令指定都市の中でも予算規模等上位にありながらも非常に面積の小さい市となっている。 府県のほうでは、1881年に現在の奈良県を編入していた堺県を大阪府へ編入して最大版図となったが、1887年に奈良県を分離した。1958年には京都府の一部を大阪府へ編入し、現在の府域となった。 大阪は長らく日本の文化の中心地であった京都に近く、また西日本最大の都市として発展したため、独自の文化を築いてきた。以下の食文化や芸能文化がよく知られるほか、大阪弁は東京方言や京言葉などとともに日本で最も知られた方言の一つである。 全国からあらゆる食材が集まる「天下の台所」であり、瀬戸内の海産物や大阪近郊の野菜にも恵まれ、日本料理の基礎となった食文化が栄え、「大阪の食い倒れ」(大阪人は破産しそうなほど飲食に贅沢をするという意味であるが、大阪人は食べ物自慢にうるさい、大阪には食べ切れないほど美味いものが沢山ある、といった意味でも使われる)という諺まで生まれた。しゃぶしゃぶや懐石料理、うどんすき、大阪寿司や割烹などの本格的な日本料理の発祥地としてや、たこ焼きやお好み焼き、串カツ、イカ焼きといった、“粉もん”を中心とした庶民の味まで、さまざまな料理が楽しめる。現在大阪では廃れた最古級の発祥地として蕎麦があり、これは関東では「砂場」の蕎麦屋の名門屋号として知られている。 昔からの土産としては岩おこしやコンブがあり、現在は廃れたもののキュウリ、ダイコンなどの伝統野菜(なにわ野菜)が見直されたり、和泉でしかできない水なすや和泉のタマネギ、ミズナなど野菜の特産もある。特にネギは九条葱等の日本の青ネギの原種であり、最古(奈良時代には既にあった記録が残る)の品種である難波葱(なんばねぎ)の一大生産地として戦前まで栄え、難波(なんば)=ネギと代名詞ともなりこれは鴨南蛮の語源となったともされている。南河内では明治の頃より山梨に次ぐ古くから葡萄の栽培が盛んであり、現在でもその出荷量は全国上位に入る品種もある。近年では、葡萄の中でも日本古来6品種の一つで約400年前より大阪に伝わる「紫」葡萄が、特産の葡萄として復活させるべく栽培と普及が進められている。 昔から“大阪の味”として親しまれてきたものとしては、ハモ、フグ、きつねうどん、まむしなどがある。特にふぐ料理は全国消費量の約6割が大阪での消費であり、代表的な料理法としてはてっちりやてっさが挙げられる。 過去には主に商人の食卓で、「半助」(蒲焼にした後のウナギの頭部)を使った炊き合わせや「船場汁」など、節約料理も数多く見られた。 鶴橋などのコリア・タウンがあることから焼肉の店も多く、日本でホルモン焼きが広まった最初の都市である。またインスタントラーメンや酢昆布など、意外な大阪発祥の料理・食品も多い。 また食の風習としては、節分の行事としての太巻き寿司の丸かぶり(いわゆる恵方巻)が挙げられる。 人形浄瑠璃発祥地であり本場。大坂相撲や上方歌舞伎も盛んであった。このほかにも庶民の娯楽として、米沢彦八らが起源とされる上方落語、漫才、吉本新喜劇・松竹新喜劇などのお笑い文化が栄えている。大阪は商業の町としての性格上、お互いに角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術が発達した。こうしたことが大阪でお笑い文化が花開く素地となったのではないかとされる。 江戸時代、江戸の「八百八町」、京都の「八百八寺」と並んで、大阪(浪華)は「八百八橋」で知られた[9]。実際には江戸の橋は約350だったのに対して、大阪の橋は200ほどだったが、江戸の半分の橋は幕府が設置した公儀橋だったのに対し、大阪の公儀橋は12橋で残りはすべて町人達が自腹で架けた橋だった[9]。 2018年にイギリスの『エコノミスト』誌の調査部門「エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(EIU)」が発表した「2018年世界で最も住みやすい都市ランキング」では大阪は3位だった[10]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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