卒業生は中央幼年学校に進み2年間の教育を受けた。中央幼年学校卒業後は士官候補生となり、各部隊で下士兵卒の勤務(隊附勤務)を六箇月間ほど務め、陸軍士官学校に進んだ。
1920年(大正9年)8月、陸軍幼年学校令(大正9年勅令第237号)が制定され、大阪陸軍幼年学校と改称した。しかし、1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約に代表される世界的軍縮傾向のなか、同年3月31日に廃止となった。
1936年(昭和11年)4月、日中関係が悪化しつつあるなか広島幼年学校が復活。次いで仙台幼年学校、熊本幼年学校と復活し、1940年(昭和15年)3月、大阪幼年学校も復活した。校地を楠木正成の居城近くの南河内郡千代田村大字木戸(現在の河内長野市木戸東町)に移し、同年(皇紀2600年)4月1日に44期生150名が入校した。採用生徒数の定員は50名であったが戦時中は増員された。入校年齢は13歳から15歳までで、3年間の教育を受け、卒業後は陸軍予科士官学校に無試験で入学した。
太平洋戦争の敗戦に伴い廃止され、解散した。
校地は、現在、大阪南医療センターと長野北高等学校になっている[2]。 大阪陸軍地方幼年学校
歴代校長
八木下純
丹羽剛 歩兵少佐:1901年11月3日 - 1904年4月8日
陶山操 歩兵少佐:1904年4月8日 -
岩崎初太郎 歩兵少佐:1904年8月19日 - 1907年11月13日
津田次郎 歩兵少佐:1907年11月13日 - 1912年3月16日
村手彦増 歩兵少佐:1912年3月16日 - 1913年11月15日
大野虎六 歩兵大尉:1913年11月15日 - 1915年8月10日
松田元武 歩兵少佐:1915年8月10日 - 1920年8月10日
大阪陸軍幼年学校(第一次)
松田元武 大佐:1920年8月10日 - 1922年3月31日廃止
大阪陸軍幼年学校(第二次)
林芳太郎 少将:1940年3月9日 -
田坂八十八 大佐:1941年3月1日 -
斎藤春麿 大佐:1943年3月1日 - 1945年2月2日
大野宣明 予備役少将:1945年2月22日 -
脚注[脚注の使い方]^ 『官報』第4392号、明治31年2月25日。
^ ⇒河内長野市公式HP 郷土トピックス?陸軍幼年学校?
参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
原剛・安岡昭男編『日本陸海軍事典コンパクト版(上)』新人物往来社、2003年。
野邑理栄子『陸軍幼年学校体制の研究』吉川弘文館、2006年。
関連項目
東京陸軍幼年学校
熊本陸軍幼年学校
仙台陸軍幼年学校
名古屋陸軍幼年学校
広島陸軍幼年学校
陸軍士官学校 (日本)
陸軍大学校