近年でも、天然記念物のスナメリ[注 14]が関西国際空港周辺に定着し始めていると判明し[12]、ウミガメの産卵地点もいくつか存在し[13]、ハセイルカやミナミハンドウイルカなども時折現れる[14][15]。また、今でこそ瀬戸内海への通常の回遊こそ消滅したが、近代になってからもクジラ[7][16][17][18]やシャチ[8]やサメやクロマグロ[11]やバショウカジキなどの確認例[注 15]も存在し[15]、特筆すべき事例もいくつか含まれる[注 16][注 17][19][20]。
また、男里川や大津川などはシオマネキやシギやチドリなどの生息地として知られている[3]。
かつては大阪湾でも見られたとされるセミクジラ[5]を模したなんばウォークのオブジェ。
2023年に淀川河口に漂着したマッコウクジラの「淀ちゃん」。
歴史
交易の海大阪港六甲山天覧台(六甲山上展望台)のパノラマ夜景写真
古称の「茅渟の海」は、日本神話の神武東征において、神武天皇の兄の五瀬命が矢を受けて負傷した際に、傷口をこの海で洗ったことから「血沼(ちぬ)の海」と呼んだことが由来となっている。
瀬戸内海航路の起点として、古代の朝廷は淀川の河口に難波津や住吉津などを置いた。これらはシルクロードの日本の玄関口となり、遣隋使や遣唐使の出発地であり、また中国や朝鮮からの船を迎えて栄えた。内陸の飛鳥や平城京、平安京とは河川舟運で結ばれ、さらに陸路で東日本へ繋がっていた。また国が対外的に開かれた時期は難波宮や難波京、福原京(計画)などの都が置かれた。
淀川の河口に形成されたデルタは難波八十島(なにわのやそしま)と呼ばれ、かつて天皇が即位する際に斎行されていた八十嶋祭の場で、天皇は大阪湾の澄ノ江(住江、住吉の浜)で身を清め、八十嶋の御霊を付着させる祭事を行った。平安時代後期においては、渡辺綱(源綱)を祖とする渡辺氏が、滝口武者(天皇を護衛する武者)の一族として天皇の清めの儀式(八十嶋祭)に携わることから、大阪湾を支配する水軍系の武家として、瀬戸内海の水軍系武士の棟梁となる。渡辺氏の分流が九州の水軍棟梁の松浦氏である。
平安時代末期には平清盛が大輪田泊を修築拡大して日宋貿易の拠点とした。戦国時代には兵庫津や堺港が日明貿易と南蛮貿易で栄えた。西日本の交通の要衝であるため交易だけでなく、戦国時代には度々戦場となった(木津川口の戦い)。鎖国で対外交易が途絶えた江戸時代には安治川口・木津川口が繁栄して北前船、樽廻船、菱垣廻船などが経済の中心地となった大坂と全国とを結んだ。