大阪湾
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

しかし、都市圏に隣接する閉鎖性水域であり[注 10]、比較的早い時期から水質悪化などの環境問題が生じた。第二次世界大戦後に進んだ沿岸の開発や都市化で干潟など自然海岸の消失や赤潮の頻発もふくめて水質汚濁が進んだが[注 11][3][4]、現在でも大阪府の泉州地方の南部や神戸市須磨区垂水区、淡路島の東岸には比較的に自然に近い海岸も残されており、海水浴場などの行楽地や漁港が点在し、漁業やマリンスポーツとしての釣りが行われている。しかし、魚介類の生息にも環境破壊の影響は顕著にみられ、全体的な漁獲量の減少やガザミ類やモガイ(サルボウ)などの急減も招いた[3]

生態系の破壊や環境破壊が深刻化する以前は、鯨類[注 12][5][6][7][8]ニホンアシカ[9][10]ウミガメや大型魚[注 13][11]が大阪湾を含む瀬戸内海に普遍的に回遊・分布していたとみられる。

近年でも、天然記念物スナメリ[注 14]関西国際空港周辺に定着し始めていると判明し[12]ウミガメの産卵地点もいくつか存在し[13]ハセイルカミナミハンドウイルカなども時折現れる[14][15]。また、今でこそ瀬戸内海への通常の回遊こそ消滅したが、近代になってからもクジラ[7][16][17][18]シャチ[8]サメクロマグロ[11]バショウカジキなどの確認例[注 15]も存在し[15]、特筆すべき事例もいくつか含まれる[注 16][注 17][19][20]

また、男里川や大津川などはシオマネキシギチドリなどの生息地として知られている[3]

かつては大阪湾でも見られたとされるセミクジラ[5]を模したなんばウォークのオブジェ。

2023年淀川河口に漂着したマッコウクジラの「淀ちゃん」。

歴史
交易の海大阪港六甲山天覧台(六甲山上展望台)のパノラマ夜景写真

古称の「茅渟の海」は、日本神話神武東征において、神武天皇の兄の五瀬命を受けて負傷した際に、傷口をこの海で洗ったことから「血沼(ちぬ)の海」と呼んだことが由来となっている。

瀬戸内海航路の起点として、古代の朝廷は淀川の河口に難波津住吉津などを置いた。これらはシルクロードの日本の玄関口となり、遣隋使遣唐使の出発地であり、また中国や朝鮮からの船を迎えて栄えた。内陸の飛鳥平城京平安京とは河川舟運で結ばれ、さらに陸路で東日本へ繋がっていた。また国が対外的に開かれた時期は難波宮難波京福原京(計画)などの都が置かれた。

淀川の河口に形成されたデルタは難波八十島(なにわのやそしま)と呼ばれ、かつて天皇即位する際に斎行されていた八十嶋祭の場で、天皇は大阪湾の澄ノ江(住江、住吉の浜)で身を清め、八十嶋の御霊を付着させる祭事を行った。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:48 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef