このベラミ事件は山口組若頭・山本健一の怒りに火をつけた。鳴海を追跡する一方で、山本は容赦のない攻撃指令を出した。報復は山本率いる山健組を中心に、宅見組(組長・宅見勝)などが参加した。
同年8月17日から10月24日[4]にかけて公衆浴場や松田組幹部自宅、路上といった場所でも無差別に松田組系組員を次々7人以上を射殺した。田岡を狙撃した鳴海は9月17日に六甲山の山中で、激しい暴行を加えられたことが明らかな状態の他殺体となって発見されたが、真犯人の判らぬまま1993年に時効となった。
松田組との手打ちさえ望まない山本健一は、11月1日に報道陣を神戸の田岡邸に招いて一方的に抗争終結を宣言。松田組も終結宣言を大阪府警に提出し、大阪戦争は終結した。
大阪戦争後と、その影響
山口組は第一次頂上作戦以降薄れていた、その強さと威信を再び内外に見せつけることになった。
持病により元々体調の悪かった山本健一は保釈を取り消され、再び収監される身となり、肝臓病を悪化させたことで1982年にこの世を去った。この事は後に山口組の4代目争いを引き起こし、混乱と分裂(山一抗争)を招く遠因となった。
松田組は「松田連合」に改称して組織建て直しを図ったものの、傘下組織の相次ぐ離脱などにより勢力が激減し1983年5月25日に解散した。大日本正義団は波谷組