大阪戦争
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白昼の繁華街の発砲事件は、社会に大きな反響をもたらした[1]

佐々木組から前年3名の死者を出していることへの報復だった。すぐに松田組側から報復が行われると警戒されたが、そのまま何事もなく1年以上の時が過ぎた。

こうして山口組と松田組の対立が深まり、冷戦状態になる中で、突如起こったのがベラミ事件である。
ベラミ事件

日本橋事件から1年9ヶ月後の1978年7月11日、山口組組長の田岡一雄は、京都市太秦東映撮影所を訪れた帰りに京阪三条駅前のクラブ「ベラミ」を訪れた。この時、田岡が「ベラミ」を時々訪れる情報を事前に掴み、1ヶ月ほど前から通いつめて待ち伏せていた大日本正義団幹部・鳴海清によって田岡は狙撃された。凶弾は田岡の首に命中して貫通銃創となり、奇跡的に一命を取り留めたが、当時すでに巨大組織となっていた山口組のトップが命の危険に晒され、流れ弾で関係のない医師2人が重傷を負った銃撃事件は社会に大きな衝撃を与えた[2]

報復は直ちに開始され、事件後数時間のうちに(結果としてベラミ事件に関与していない)敵対組織に銃弾が撃ち込まれる事件が発生した[3]
山口組の報復と抗争終結

このベラミ事件は山口組若頭山本健一の怒りに火をつけた。鳴海を追跡する一方で、山本は容赦のない攻撃指令を出した。報復は山本率いる山健組を中心に、宅見組(組長・宅見勝)などが参加した。

同年8月17日から10月24日[4]にかけて公衆浴場や松田組幹部自宅、路上といった場所でも無差別に松田組系組員を次々7人以上を射殺した。田岡を狙撃した鳴海は9月17日六甲山の山中で、激しい暴行を加えられたことが明らかな状態の他殺体となって発見されたが、真犯人の判らぬまま1993年に時効となった。

松田組との手打ちさえ望まない山本健一は、11月1日に報道陣を神戸の田岡邸に招いて一方的に抗争終結を宣言。松田組も終結宣言を大阪府警に提出し、大阪戦争は終結した。
大阪戦争後と、その影響

山口組は第一次頂上作戦以降薄れていた、その強さと威信を再び内外に見せつけることになった。

持病により元々体調の悪かった山本健一は
保釈を取り消され、再び収監される身となり、肝臓病を悪化させたことで1982年にこの世を去った。この事は後に山口組の4代目争いを引き起こし、混乱と分裂(山一抗争)を招く遠因となった。

松田組は「松田連合」に改称して組織建て直しを図ったものの、傘下組織の相次ぐ離脱などにより勢力が激減し1983年5月25日に解散した。大日本正義団は波谷組傘下となって存続したが、1990年山波抗争により波谷組が事実上解体したのを受けて同年12月に解散した。

大阪戦争における松田組への襲撃事件の実行犯及び首謀者の多く(盛力健児・懲役16年、井上邦雄・懲役17年など)は、長期の懲役刑に服した。彼らは山一抗争終結後に出所し、五代目・渡辺芳則組長の元で幹部に抜擢されていった。

脚注^ 白昼、繁華街で撃ち合い 暴力団抗争、会長を射殺 胸にピストル散発 買い物客の目の前で『朝日新聞』1976年(昭和51年)10月4日朝刊、13版、23面
^ 田岡組長撃たれて重傷 医師二人も巻き添え『朝日新聞』1978年(昭和53年)7月12日朝刊、13版、23面
^ 力の対決、火を噴く 直ちに報復の銃弾 菅谷組幹部宅へ二発『朝日新聞』1978年(昭和53年)7月12日夕刊、3版、11面
^ また松田組系の幹部を射殺『朝日新聞』1978年(昭和53年)10月24日夕刊、3版、11面

参考文献

飯干晃一 『雷鳴の山口組 角川文庫―日本アウトロー史』(角川書店、1990年) - ISBN 4041464234

関連項目

吉田芳幸 - 松田組系村田組大日本正義団二代目会長


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