大阪弁
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また上方の人形浄瑠璃の芸風もステレオタイプの形成に影響を与えたと考えられる[43]十返舎一九東海道中膝栗毛』に登場する喜多八の「惣体上方ものはあたじけねへ。気のしれたべらぼうどもだ」[44]という台詞は当時の江戸から見た上方者のイメージの例と言えよう。

近代になると、大阪ではエンタツアチャコを中心に漫才が急速に発展し、ラジオを通じて日本全国で人気を博した。また戦後のテレビにおいても『番頭はんと丁稚どん』や『てなもんや三度笠』などの上方喜劇番組が盛んに放送された。こうしたマスメディアでの発信は大阪弁・関西弁の浸透を日本全国に促すとともに、「関西人=お笑い」が固定化されていったと考えられる。またこの同時期には菊田一夫の戯曲『がめつい奴[45]花登筺の「根性もの」がブームとなり、「関西人=どケチ・ど根性」が固定化されていったと考えられる[46]。中井精一は「大阪弁は面白く、大阪はお笑いだ。このイメージは、80年代の漫才ブームが火付け役になり、90年代になって一般に普及していった。これは見方を変えると、90年以降、バブルがはじけて多くの中小企業が倒産し、大阪の凋落が決定的になったことと同一線上で語られる現象で、成功者が激減した大阪は『ど根性』から『どあほう』の街へ全国の人々のイメージを変容させたとも言えそうである」と記述している[47]

最後の7は戦後になって形成された、比較的新しいステレオタイプである。江戸時代・明治時代においては、べらんめえ口調で喧嘩っ早い江戸っ子に比べて、上方者は気が長く柔弱であるとされていた[48]泉鏡花が「草雙紙に現れたる江戸の女の性格」で同様に評している。福澤諭吉は「元来大阪の町人は極めて臆病だ。江戸で喧嘩をすると野次馬が出て来て滅茶苦茶にしてしまうが、大阪では野次馬はとても出てこない。」と福翁自伝にて述べている。

関西の言葉について、谷崎潤一郎は、1932年昭和7年)に随筆「私の見た大阪及び大阪人」にて、「関西の婦人は凡べてそういう風に、言葉数少く、婉曲に心持を表現する。それが東京に比べて品よくも聞え、非常に色気がある。(中略)猥談などをしても、上方の女はそれを品よくほのめかしていう術を知っている。東京語だとどうしても露骨になる。」と記している。織田作之助1947年昭和22年)「大阪の可能性」において「私はかねがね思うのだが、大阪弁ほど文章に書きにくい言葉はない。」とし、「大阪弁というものは語り物的に饒舌にそのねちねちした特色も発揮するが、やはり瞬間瞬間の感覚的な表現を、その人物の動きと共にとらえた方が、大阪弁らしい感覚が出るのではなかろうか。大阪弁は、独自的に一人で喋っているのを聴いていると案外つまらないが、二人乃至三人の会話のやりとりになると、感覚的に心理的に飛躍して行く面白さが急に発揮されるのは、私たちが日常経験している通りである。」と評している。

「関西人=暴力的」のイメージは、1950年代から1970年代にかけて、今東光の「河内もの」、『極道シリーズ』に代表される関西が舞台のやくざ映画、『嗚呼!!花の応援団』や『じゃりン子チエ』のようなエネルギッシュな漫画作品の流行などによって形成されたと考えられる[41]。その後、1980年代には映画さながらの抗争事件グリコ・森永事件などの凶悪犯罪が関西で多発し、新聞やワイドショーを連日賑わせるなかで「関西=恐い」のイメージがあおり立てられた[49]

これらの印象付けを木津川計は「マスコミでは、ふだん、大阪のことは全国記事になりにくいのに、暴力団の抗争や警官不祥事などというとすぐに大きい扱いとなる。これでは大阪の印象は良くならない」「イメージのひとり歩きが『文化テロル』に繋がる」と指摘している[50]。また、関西大学副学長の黒田勇もスポーツ紙から次第に一般化したと、役割語としての関西弁の広がりを指摘する[51]。大阪を取り上げる在京マスコミの姿勢がそもそも、「あくまで関東人にとってのステレオタイプの大阪」しか求めようとしないという指摘もある[52]
例文

設定した文を近畿各地の方言に訳してまとめた『近畿方言の総合的研究』の「近畿方言文例抄」から、旧摂津国の範囲の方言を抜粋する
[53]。なお、この項目での「摂津」は狭義の摂津方言を指す。

雨が降っているから、傘を差していきなさいよ

摂津:アメ(ガ) フッテ(イ)ル ヨッテ(ニ)/サカイニ、カサ(オ) サシテ イキー/イキ(ナハレ) ヤ/ナ

能勢:アメ フットル サカイ、カサ サシテ イキ/イキナハレ ヨ

三島:アメ(ガ) フッタール/フッテル サカイ(ニ)、カサ サシテ/サヒテ イキ ヤ

神戸:アメ フリヨル サカイ、カサ サシテ イキヨ


おはようございます。さあお上がりくださいませ。皆様が待っていらっしゃいますから

摂津:オハヨーサンデス/オハヨーサン。サー アガットク(レ)ナハレ/オアガンナハッテ。ミナサンガ/ドナタハンモ マッテハリマッセ/マッテハリマスヨッテ

能勢:オハヨーオス/オハヨーゴザイマス。サー アガットクナハレ/アガッテクナハレ。ミナハン/ミンナ マッタハリマッセ/マッタハリマッサカイ

三島:オハヨーサンデス/オハヨーゴザイマス。サー アガットクナハレ/アガットクナーレ。ミ(ン)ナ/ミナハン マッテテクレタハリマスネン/マッターリマ

神戸:オハヨーサンデス。マー アガットクンナハレ。ミナサンガ マットッテデッサカイ


赤ん坊を寝させるのだから、静かにしていなければいけないよ

摂津:ヤヤコ/アカンボー ネヤセルヨッテ/ネサセンナンサカイ、シズカニ/オトナシー セント/シテオカント アカンデ(ー)

能勢:ヤヤコ/アカチャン ネサスネンサカイ/ネヤスノヤサカイ、シズカニ シテナ/シトラナ アカンデー/イカンデ

三島:ヤーコオ ネヤスサカイ/ネサセルサカイ、シズカニ/オトナシー シテ(ヤ)ナ イカンデ/アカンデ

神戸:アカンボー ネサセンネヤカラ、シズカニ シトラナ アカンデー




1990年に記録された、明治44年生まれの大阪市生野区の女性(船場南久宝寺町出身)と調査者(岸江信介)のやりとり[54]。()は調査者の発言。なお、読みやすさのため、カタカナ表記をひらがな表記に、アクセント記号「」を[]に改め、共通語訳を加えた。(オワタリというのはどういう事?)おわたりわ[ね]ー、お渡りはねーそ[こ]の[うじがみさんの[ね、そこの氏神さんのね、あのー [ま、あのー ま、わたしらー あの [なんばじ]んじゃいー]まして ね あのーいまー[ま]ーまだ[のこってますけ]ど みどー[す]じに なんばじ]んじゃゆーの]が [のこってますけ]ど [その]おまつりの[ひ]ーが、私らー あの 難波神社といいまして ね あのー今まあまだ残っていますけど 御堂筋に 難波神社というのが 残っていますけど そのお祭りの日が、あのー[に]じゅー は[つか に]じゅー い[ち]とあります]ねん[な、あのー二十 二十日 二十一とあるんですよね、[ひち]がつのそーと その よ[み]やの ひ]ー[に、七月の その 宵宮の日に、あの[ほんまつりのひ]ーか あの [あれお[ね、あの本祭りの日か あの あれをね、ちょ[ー]ないから み]な[ね、町内から 皆ね、おちご[さん]も だし[ます]し そして あの まー おうち[の] おかた[が、お稚児さんも 出しますし そして あの まあ お家の お方が、おやくあのーお[せ]わ[したはる]おか[た]やら [じゅんばんに]ま]た[ではる]おう[ち]もありますちゃんと [い]み[た]だして そら も]んつき[はか]まで[ね、お役 あのーお世話しておられるお方やら 順番にまた出られるお家もあります ちゃんと 意味を正して そりゃ 紋付袴でね、それ ついて[いきはります]ね ほんで [その か]みさん[が、それ ついて行かれるんです それで その 神さんが、あの こ]しに[の]って [そして、あの 輿に乗って そして、あのあのー [なん]ちゅーねん[な]ー あの [む]この えー おた[び]しょゆー]のがありまして そ[こ][え あの [いかれます]ねん [そのぎょーれつお、あのあのー 何と言うのかなー あの 向こうの えー 御旅所というのがありまして そこへ あの 行かれるんです その行列を、そのーおみやさんから ずーっ[と、そのーお宮さんから ずーっと、[ぎょーれつし]て[いきはります ほて ちょ[ー]ないに[よ]ったら おちご[さん]だしはる[と]こもあれ]ば [そーゆ]ーなこ]とでまた [い]っしょー[け]んめー [い]っしょー[け]んめー[み]たもんです [ゆ]ーちょーな[も]ん[で]して行列していかれます そして 町内によったら お稚児さんを出されるところもあれば そういうようなことでまた 一生懸命 一生懸命見たものです 悠長なものでして(そういうのが今は全然なくなってますね)ありませ[ん ありませ[ん もー ぜん[ぜん、ありません ありません もう 全然、[そーでし]てん まー そ[れ]ぞれの[ね、そうだったんです まあ それぞれのね、あのーおみやさん[の、あのーお宮さんの、[その]おわた[り]わあるそ[れ]ぞれでっ[せ、そのお渡りはある それぞれですよ、ある[と]こもない[と]こもありまし]たやよってに[ねあるところもないところもありましたからね(やはり船場)まーやっ[ぱ]しあた[し]らー [そーゆーこ]とやっぱ [なつか]し[な]と [お]もて いま[で]も[おもてます]けど[ね、まあやっぱり私らー そういうことやっぱり 懐かしいなと 思って 今でも思っていますけどね、[もー おそ]らくわたしが[しまい]でしょもう 恐らく私が最後でしょ

脚注^ 楳垣編(1962)、429頁。
^ a b 橋爪監修(2009)、12頁。
^ 平山ほか編(1997)、10頁。
^ 岡田・楳垣(1962), 506頁。
^ 山本(1962), 427-429頁。
^ 高木(2018), 74頁。
^ 原文ママ。「豊能町西部」の誤記か
^ 高木(2018), 77-79頁。
^ 楳垣・岡田(1962), 506頁。
^ 鎌田良二『兵庫県方言文法の研究』、1979年、桜楓社
^ 都染(2018), 83頁。
^ 前田(1977)、47頁。
^ 平山ほか編(1997)、19頁。
^ 谷崎潤一郎「私の見た大阪及び大阪人」、昭和七年二月?四月、『中央公論』
^ 宮本慎也の2006年12月のブログより[要出典]。


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