大阪では様々な駄洒落言葉が発達した。近世大坂は、「諸色値段相場の元方」である堂島米市場、天満青物市場、雑喉場魚市場の三大市場を擁し、全国の物資・物流の集散地であった。中之島には諸藩の蔵屋敷が並び、「出船千艘・入船千艘」の活況を呈した。こうしてヒト・モノ・カネ・情報が集積する大坂は一大商都であり、商行為にはコミュニケーションが必須であった。
とはいえ、己の利益をただ露骨に表明するだけでは、顧客の心を掴むことはできない。一方、甘言を弄して顧客に媚びるだけではかえって警戒されるし、仮にうまく成約にこぎつけても、すぐに飽きられてしまう。そこで、相手の気を逸らさないようにしつつ、同時に己の相応の利も確保するという巧みな会話力が必要とされた。その際に威力を発揮したのが「しゃれ言葉」であった。依頼・勧誘・哀願・保留・交渉・譲歩・提案・謝絶・皮肉・揶揄・賞讃などを、しゃれを介して柔らかく朗らかに、しかし芯をぶらすことなく、相手に伝えたのである。
しゃれ言葉は人々の日常会話の中で不断に生み出され、多くの人々の共感を得た秀作は残り、意味がとりにくいものや面白みに欠けるものは時代の波に洗われて消えていった。以下に実例を例示する。 漫画やドラマなどのフィクションの世界において、大阪弁および関西弁は一定のステレオタイプを伴う役割語として描かれることがある。「役割語」の提唱者である金水敏は、大阪弁を話す登場人物がいたらほぼ間違いなく、以下のステレオタイプを1つか2つ以上持っていると述べている[38]。また、ステレオタイプな役割語は表現者の意図した、あるいは意図しない偏見・差別意識を伝える場合があると指摘している[39]。 2から6はいずれも、直感的・現実的な快楽や欲望をなりふり構わず肯定、追求しようとする性質と結びついている。それは周囲の常識人から顰蹙を買い、嘲笑や軽蔑の対象となるが、一方で1と結びついて愛すべき道化役となり、また偽善・権威・理想・規範といった縛りを笑い飛ばす役回りにもなる。すなわち、ステレオタイプな大阪人・関西人はトリックスターの役どころを与えられていると金水は指摘する[42]。 1から6のステレオタイプは、江戸時代後期には既に相当完成されていたとされる。江戸時代、上方では現実的で経済性を重んじる気風があり、また商交渉を円滑にするため饒舌が歓迎されていたと考えられる。これは禁欲主義・理想主義・行動主義的で寡黙な人格が好まれる江戸とは対照的であった。特に商都大坂から江戸へ金儲けにやってくる上方商人達の姿は「宵越しの銭は持たない」江戸っ子にとって強く印象的だったろうと考えられる。また上方の人形浄瑠璃の芸風もステレオタイプの形成に影響を与えたと考えられる[43]。十返舎一九『東海道中膝栗毛』に登場する喜多八の「惣体上方ものはあたじけねへ。気のしれたべらぼうどもだ」[44]という台詞は当時の江戸から見た上方者のイメージの例と言えよう。 近代になると、大阪ではエンタツ・アチャコを中心に漫才が急速に発展し、ラジオを通じて日本全国で人気を博した。また戦後のテレビにおいても『番頭はんと丁稚どん』や『てなもんや三度笠』などの上方喜劇番組が盛んに放送された。こうしたマスメディアでの発信は大阪弁・関西弁の浸透を日本全国に促すとともに、「関西人=お笑い」が固定化されていったと考えられる。またこの同時期には菊田一夫の戯曲『がめつい奴』[45]や花登筺の「根性もの」がブームとなり、「関西人=どケチ・ど根性」が固定化されていったと考えられる[46]。中井精一は「大阪弁は面白く、大阪はお笑いだ。このイメージは、80年代の漫才ブームが火付け役になり、90年代になって一般に普及していった。これは見方を変えると、90年以降、バブルがはじけて多くの中小企業が倒産し、大阪の凋落が決定的になったことと同一線上で語られる現象で、成功者が激減した大阪は『ど根性』から『どあほう』の街へ全国の人々のイメージを変容させたとも言えそうである」と記述している[47]。 最後の7は戦後になって形成された、比較的新しいステレオタイプである。江戸時代・明治時代においては、べらんめえ口調で喧嘩っ早い江戸っ子に比べて、上方者は気が長く柔弱であるとされていた[48]。泉鏡花が「草雙紙に現れたる江戸の女の性格」で同様に評している。福澤諭吉は「元来大阪の町人は極めて臆病だ。江戸で喧嘩をすると野次馬が出て来て滅茶苦茶にしてしまうが、大阪では野次馬はとても出てこない。」と福翁自伝にて述べている。 関西の言葉について、谷崎潤一郎は、1932年(昭和7年)に随筆「私の見た大阪及び大阪人」にて、「関西の婦人は凡べてそういう風に、言葉数少く、婉曲に心持を表現する。それが東京に比べて品よくも聞え、非常に色気がある。(中略)猥談などをしても、上方の女はそれを品よくほのめかしていう術を知っている。東京語だとどうしても露骨になる。」と記している。織田作之助は1947年(昭和22年)「大阪の可能性」において「私はかねがね思うのだが、大阪弁ほど文章に書きにくい言葉はない。」とし、「大阪弁というものは語り物的に饒舌にそのねちねちした特色も発揮するが、やはり瞬間瞬間の感覚的な表現を、その人物の動きと共にとらえた方が、大阪弁らしい感覚が出るのではなかろうか。大阪弁は、独自的に一人で喋っているのを聴いていると案外つまらないが、二人乃至三人の会話のやりとりになると、感覚的に心理的に飛躍して行く面白さが急に発揮されるのは、私たちが日常経験している通りである。」と評している。 「関西人=暴力的」のイメージは、1950年代から1970年代にかけて、今東光の「河内もの」、『極道シリーズ』に代表される関西が舞台のやくざ映画、『嗚呼!!花の応援団』や『じゃりン子チエ』のようなエネルギッシュな漫画作品の流行などによって形成されたと考えられる[41]。その後、1980年代には映画さながらの抗争事件やグリコ・森永事件などの凶悪犯罪が関西で多発し、新聞やワイドショーを連日賑わせるなかで「関西=恐い」のイメージがあおり立てられた[49]。 これらの印象付けを木津川計は「マスコミでは、ふだん、大阪のことは全国記事になりにくいのに、暴力団の抗争や警官不祥事などというとすぐに大きい扱いとなる。これでは大阪の印象は良くならない」「イメージのひとり歩きが『文化テロル』に繋がる」と指摘している[50]。また、関西大学副学長の黒田勇もスポーツ紙から次第に一般化したと、役割語としての関西弁の広がりを指摘する[51]。大阪を取り上げる在京マスコミの姿勢がそもそも、「あくまで関東人にとってのステレオタイプの大阪」しか求めようとしないという指摘もある[52]。
白犬のおいど:面白い(尾も白い)
黒犬のおいど:面白うない(尾も白うない)
牛のおいど:物知り(モーの尻)
うどん屋の釜:言うばかり(湯ぅばかり)
雪隠場の火事:やけくそ(焼け糞)
五合とっくり:一生つまらん(一升詰まらぬ)
蟻が十匹、猿が五匹:ありがとうござる(蟻が十、五猿)
夜明けの行灯:薄ぼんやり
蛸の天麩羅:揚げ足をとる
竹屋の火事:ポンポンいう
酢屋の看板:上手(上酢)
鰯煮た鍋:(男女が)くさい仲である・どうも臭う
ちびた鋸:(仲が)切っても切れない
春の夕暮れ:ケチ(くれそうでくれん)
赤子の行水:金足らいで泣いている(金盥で泣いている)
狐のやいと:困窮している(コン灸)
馬のやいと:貧窮している(ヒン灸)
無地の羽織:一文なし(一紋なし)
役割語としての大阪弁
冗談好き、笑わせ好き、おしゃべり好き
けち、守銭奴、拝金主義者
食通、食いしん坊
派手好き
好色、下品
ど根性(逆境に強く、エネルギッシュにそれを乗り越えていく)
なお、大阪では本来、「ど根性」とは悪い根性を意味する語であった[40]。本来の大阪弁で現在の「ど根性」のニュアンスに近い語は「土性骨」である[41]。
やくざ、暴力団、恐い
例文
設定した文を近畿各地の方言に訳してまとめた『近畿方言の総合的研究』の「近畿方言文例抄」から、旧摂津国の範囲の方言を抜粋する[53]。