大阪弁
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

が、これは遊女の言葉からきたというので、年寄りなどはこの表現を厳しく禁じていた[31]。 

「したろか」だとか、「いてこましたろか」「やったるで」などのよく知られる大阪弁も、品のない言葉だから、たとえ冗談でも使わないように戒めていた[32]

船場言葉は、よそ行きの言葉と日常の言葉、目下の者、友人同士、奉公人同士などの変化があり、親しいもの同士の場合は、うんとくだけて河内弁も入った。喧嘩の場合などはドスをきかせるために、ガラの悪い言葉も出た[33]

できる限り丁寧な表現を用いるように努め、一般の大阪市民が多用した「おます」や「だす」よりも、「ござります」や「ごわす・ごあす」を多用した。「ごわす」は「ござります」が変化したもので、船場独特のややくだけた丁寧語として知られた。否定形は「ごわへん」または「ごあへん」。

尊敬語に関しても、一般市民が多用した「なはる」や「はる」よりも、その原型である「なさる」や京言葉から取り入れた「お…やす」を多用した。また、江戸時代に多用され、明治以降の大阪では「はる」に押されて衰退したてや敬語(例:言うてや=言っておいでだ)を船場では昭和まで用い続けた。

「お…やす」「ご…なはる」などの様に、文頭に冠詞をつけ、かつ文末表現も合わせることで、尊敬の意味を付加することが多いと考えられる。「どす」や「お…やす」など、京言葉に似ている点が多い。船場の商人たちが、京にあこがれ真似した、或いは、京都の娘が多く船場に嫁いできたなど様々な理由が考えられている[34]

「すもじ・おすもじ(寿司)」「おだい(大根)」「おみや(足)」といった女房言葉を日常生活で多用した。

谷崎潤一郎の『細雪』では以下のような船場言葉が登場する。
「あなたの旦那さん、きつときつと無事でお歸りになりますわ(略)」(幸子→シュトルツ夫人 『細雪』中巻・四)
幸子は夫または下位者に対しては「あんた」を使用し、ソトの関係の人物に対しては「あなた」を使用している。また、夫に対して使用する「あんた」は、見合いの場等では「あんさん」として敬称が使用されている。

「………雪子はをりやつけど、呼んで來まおか」(幸子→富永の叔母 『細雪』上巻・二十二)
この使用は、「「お」のない「やす」言葉であって、これこそ「船場特有のもの」とされている[35]

その他、『細雪』に於る関西方言の特徴では、四姉妹の叔母にあたる富永の叔母が使用する「昔ながら船場言葉」があげられる。
「今日は雪子ちやんもこいさんもお内にゐてやおまへんか」(富永の叔母→幸子 『細雪』上巻・二十二)
「さうですか、それであたしも使に來た甲斐がごわしたわ」(富永の叔母→幸子 『細雪』上巻・二十二)
楳垣実によれば、「これだけの簡単な対話に船場言葉の代表的語法がこれだけ現れていることは、たしかに注目すべきことであって、谷崎氏は確かな資料に基いて書かれたものと信じてよかろう[36]」と述べており、谷崎の関西方言が相当なものであることが示される。

船場商人独特の呼称の例[37]

主人一族への呼びかけ

おやだんさん(主人の父)

おえさん・おえはん(主人の母)

だんさん・だなはん(主人)

隠居後は、ごいんきょはん。


ごりょんさん(主人の妻)

隠居後は、いんきょのおえはん。さらに後家になった後は、おこひっつぁん。


ぼんさん・ぼんぼん(主人の息子)

複数いる場合、上から順に、あにぼんさん、なかぼんさん、こぼんさん。

成人後は、わかだんさん。その妻は、わかごりょんさん。


いとさん・いとはん・とおはん(主人の娘)

複数いる場合、上から順に、あねいとさん、なかいとさん、こいとさん・こいさん、こいこいさん。二人の場合は上から順に、いとさん、こいさん。



奉公人の呼称

ばんとはん(番頭)

各人を呼ぶ時は名前に「どん」を付けた。(例:五助どん)


おみせのおかた・おみせのん(店員)

でっちさん・こどもっさん・ぼんさん(丁稚)

各人を呼ぶ時は男女かかわらず名前に「どん」または「とん」を付けた。(例:定吉どん、さだきっとん、吉どん、よしどん)さらに、丁稚や下男下女の通称としてだれでもいいから手伝いを呼ぶ際などに(さだきっとん、吉どん)の呼び方が多用された。


おとこっさん(下男)、おなごっさん(下女)

おんばはん(乳母)、だきんばはん(乳を与えず、抱っこするだけの乳母)、もりさん(子守り)



しゃれ言葉

大阪では様々な駄洒落言葉が発達した。近世大坂は、「諸色値段相場の元方」である堂島米市場、天満青物市場、雑喉場魚市場の三大市場を擁し、全国の物資・物流の集散地であった。中之島には諸藩の蔵屋敷が並び、「出船千艘・入船千艘」の活況を呈した。こうしてヒト・モノ・カネ・情報が集積する大坂は一大商都であり、商行為にはコミュニケーションが必須であった。

とはいえ、己の利益をただ露骨に表明するだけでは、顧客の心を掴むことはできない。一方、甘言を弄して顧客に媚びるだけではかえって警戒されるし、仮にうまく成約にこぎつけても、すぐに飽きられてしまう。そこで、相手の気を逸らさないようにしつつ、同時に己の相応の利も確保するという巧みな会話力が必要とされた。その際に威力を発揮したのが「しゃれ言葉」であった。依頼・勧誘・哀願・保留・交渉・譲歩・提案・謝絶・皮肉・揶揄・賞讃などを、しゃれを介して柔らかく朗らかに、しかし芯をぶらすことなく、相手に伝えたのである。

しゃれ言葉は人々の日常会話の中で不断に生み出され、多くの人々の共感を得た秀作は残り、意味がとりにくいものや面白みに欠けるものは時代の波に洗われて消えていった。以下に実例を例示する。

白犬のおいど:面白い(尾も白い)

黒犬のおいど:面白うない(尾も白うない)

牛のおいど:物知り(モーの尻)

うどん屋の釜:言うばかり(湯ぅばかり)

雪隠場の火事:やけくそ(焼け糞)

五合とっくり:一生つまらん(一升詰まらぬ)

蟻が十匹、猿が五匹:ありがとうござる(蟻が十、五猿)

夜明けの行灯:薄ぼんやり

蛸の天麩羅:揚げ足をとる

竹屋の火事:ポンポンいう

酢屋の看板:上手(上酢)

鰯煮た鍋:(男女が)くさい仲である・どうも臭う

ちびた鋸:(仲が)切っても切れない

春の夕暮れ:ケチ(くれそうでくれん)

赤子の行水:金足らいで泣いている(金盥で泣いている)

狐のやいと:困窮している(コン灸)

馬のやいと:貧窮している(ヒン灸)

無地の羽織:一文なし(一紋なし)

役割語としての大阪弁

漫画やドラマなどのフィクションの世界において、大阪弁および関西弁は一定のステレオタイプを伴う役割語として描かれることがある。「役割語」の提唱者である金水敏は、大阪弁を話す登場人物がいたらほぼ間違いなく、以下のステレオタイプを1つか2つ以上持っていると述べている[38]。また、ステレオタイプな役割語は表現者の意図した、あるいは意図しない偏見・差別意識を伝える場合があると指摘している[39]
冗談好き、笑わせ好き、おしゃべり好き

けち、守銭奴、拝金主義者

食通、食いしん坊

派手好き

好色、下品

ど根性(逆境に強く、エネルギッシュにそれを乗り越えていく)

なお、大阪では本来、「ど根性」とは悪い根性を意味する語であった[40]。本来の大阪弁で現在の「ど根性」のニュアンスに近い語は「土性骨」である[41]


やくざ、暴力団、恐い

2から6はいずれも、直感的・現実的な快楽や欲望をなりふり構わず肯定、追求しようとする性質と結びついている。それは周囲の常識人から顰蹙を買い、嘲笑や軽蔑の対象となるが、一方で1と結びついて愛すべき道化役となり、また偽善・権威・理想・規範といった縛りを笑い飛ばす役回りにもなる。すなわち、ステレオタイプな大阪人・関西人はトリックスターの役どころを与えられていると金水は指摘する[42]

1から6のステレオタイプは、江戸時代後期には既に相当完成されていたとされる。江戸時代、上方では現実的で経済性を重んじる気風があり、また商交渉を円滑にするため饒舌が歓迎されていたと考えられる。これは禁欲主義・理想主義・行動主義的で寡黙な人格が好まれる江戸とは対照的であった。特に商都大坂から江戸へ金儲けにやってくる上方商人達の姿は「宵越しの銭は持たない江戸っ子にとって強く印象的だったろうと考えられる。また上方の人形浄瑠璃の芸風もステレオタイプの形成に影響を与えたと考えられる[43]十返舎一九東海道中膝栗毛』に登場する喜多八の「惣体上方ものはあたじけねへ。気のしれたべらぼうどもだ」[44]という台詞は当時の江戸から見た上方者のイメージの例と言えよう。

近代になると、大阪ではエンタツアチャコを中心に漫才が急速に発展し、ラジオを通じて日本全国で人気を博した。また戦後のテレビにおいても『番頭はんと丁稚どん』や『てなもんや三度笠』などの上方喜劇番組が盛んに放送された。こうしたマスメディアでの発信は大阪弁・関西弁の浸透を日本全国に促すとともに、「関西人=お笑い」が固定化されていったと考えられる。またこの同時期には菊田一夫の戯曲『がめつい奴[45]花登筺の「根性もの」がブームとなり、「関西人=どケチ・ど根性」が固定化されていったと考えられる[46]。中井精一は「大阪弁は面白く、大阪はお笑いだ。このイメージは、80年代の漫才ブームが火付け役になり、90年代になって一般に普及していった。これは見方を変えると、90年以降、バブルがはじけて多くの中小企業が倒産し、大阪の凋落が決定的になったことと同一線上で語られる現象で、成功者が激減した大阪は『ど根性』から『どあほう』の街へ全国の人々のイメージを変容させたとも言えそうである」と記述している[47]

最後の7は戦後になって形成された、比較的新しいステレオタイプである。江戸時代・明治時代においては、べらんめえ口調で喧嘩っ早い江戸っ子に比べて、上方者は気が長く柔弱であるとされていた[48]泉鏡花が「草雙紙に現れたる江戸の女の性格」で同様に評している。福澤諭吉は「元来大阪の町人は極めて臆病だ。江戸で喧嘩をすると野次馬が出て来て滅茶苦茶にしてしまうが、大阪では野次馬はとても出てこない。」と福翁自伝にて述べている。

関西の言葉について、谷崎潤一郎は、1932年昭和7年)に随筆「私の見た大阪及び大阪人」にて、「関西の婦人は凡べてそういう風に、言葉数少く、婉曲に心持を表現する。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:88 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef