大阪弁
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」と評している[26]

「大阪弁善哉」では、「綺麗で滑らかで、なんとなくまったりした、やわらかく優雅な言葉、幅のある表現のなかに適度にユーモアをたたえた、苦労を知ったうえの気取らなさがあり、そのうえ、うっかりすると聞き逃してしまうかもわからぬような諷刺が、そのなかにそっと包まれていて、それが少しも耳立たない。」と評している。

しかし、香村菊雄によると、「船場言葉もびろうどの布の上に玉をすべらせるような、優雅な場合ばかりとは限らず、一度、船場言葉でねっとりと絡まれると、何ともいえぬ、意地悪(いけず)さがぬらりくらりと這い回って、まるで真綿で首というか、くちな(蛇)にじわじわ締め付けられてゆくような恐ろしさがある。それは怒っているときであり、皮肉を言う時である。」と述べている。

以下は、船場の人である香村の母親の会話例である。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}へえへえ、わたしらは尋常(小学校)もろくにあがらん無学文盲でごあす。お賢いあんさんみたいなお方はんの、ねき(傍)にも寄られいたしやへん。せえだい(精々).mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}悪口(あっこ)おっしゃっとくれやす。けどなああんさん。親をないがしろにおしやしたら、どないな報いが参じますやら、存じやへんでごあっせ。

という調子であり、鰻谷で生まれ育った香村の妻はこの船場言葉を聞くと、さぶいぼが立つと恐れおののいたという。鰻谷のある島之内は、今は埋め立てられた長堀川の南岸に位置し、川幅20mの北対岸が船場である。このように、たった20mの川一つが国境でもあるかのように、言葉も違えば気質も風習も違っていた[27]
表現

大阪の人間は挨拶代わりに「儲かりまっか」という表現をとる、と云われるが、昔の船場の人々は、絶対にそんな一旗組の、新興商人のような下品な挨拶はしなかった。また、「これ負けてんか」「負けときまひょ」などのズケズケした品のない取引もしなかった。同じことでも「もうちょっと何とかなりまへんか」「さいでごあんなぁ。あとあとのこともごあすし、清水の舞台から飛びおりたつもりで、勉強さしていただきやす」というような、相手を奉った物柔らかい調子であった[28]

木村元三は、母親の使う船場言葉を聞いて、穏やかで、相手を非難したり、争いをするようなことはひとつもなく、ボキャブラリーが豊かで、言いたいことを過不足なく伝えられて、相手への思いやりがあふれている。語感もすっきりして、言葉としても完成されていた、と回想している。また、「「もうかりまっか」とかいうのが大阪弁の典型みたいにいわれてますけど、大阪の商売人はそんなん使(つこ)たことないです。他所(よそ)から来た人が流行らした言葉でしょうな。」と語っており。大阪人は、「ごあへん」「ごあっさかい」とか、しゃちこばらず、角のとれた言葉で、しかも十分、礼儀を尽くした言葉を使っていた、と語っている[29][30]
語彙

明治末から親しい女の子同士が話すとき、「そやわ」とか、「あかんわ」「ええわ」などの「わ」は「そやし」「あかんし」「ええし」など「し」に変化した。が、これは遊女の言葉からきたというので、年寄りなどはこの表現を厳しく禁じていた
[31]。 

「したろか」だとか、「いてこましたろか」「やったるで」などのよく知られる大阪弁も、品のない言葉だから、たとえ冗談でも使わないように戒めていた[32]

船場言葉は、よそ行きの言葉と日常の言葉、目下の者、友人同士、奉公人同士などの変化があり、親しいもの同士の場合は、うんとくだけて河内弁も入った。喧嘩の場合などはドスをきかせるために、ガラの悪い言葉も出た[33]

できる限り丁寧な表現を用いるように努め、一般の大阪市民が多用した「おます」や「だす」よりも、「ござります」や「ごわす・ごあす」を多用した。「ごわす」は「ござります」が変化したもので、船場独特のややくだけた丁寧語として知られた。否定形は「ごわへん」または「ごあへん」。

尊敬語に関しても、一般市民が多用した「なはる」や「はる」よりも、その原型である「なさる」や京言葉から取り入れた「お…やす」を多用した。また、江戸時代に多用され、明治以降の大阪では「はる」に押されて衰退したてや敬語(例:言うてや=言っておいでだ)を船場では昭和まで用い続けた。

「お…やす」「ご…なはる」などの様に、文頭に冠詞をつけ、かつ文末表現も合わせることで、尊敬の意味を付加することが多いと考えられる。「どす」や「お…やす」など、京言葉に似ている点が多い。船場の商人たちが、京にあこがれ真似した、或いは、京都の娘が多く船場に嫁いできたなど様々な理由が考えられている[34]

「すもじ・おすもじ(寿司)」「おだい(大根)」「おみや(足)」といった女房言葉を日常生活で多用した。

谷崎潤一郎の『細雪』では以下のような船場言葉が登場する。
「あなたの旦那さん、きつときつと無事でお歸りになりますわ(略)」(幸子→シュトルツ夫人 『細雪』中巻・四)
幸子は夫または下位者に対しては「あんた」を使用し、ソトの関係の人物に対しては「あなた」を使用している。また、夫に対して使用する「あんた」は、見合いの場等では「あんさん」として敬称が使用されている。

「………雪子はをりやつけど、呼んで來まおか」(幸子→富永の叔母 『細雪』上巻・二十二)
この使用は、「「お」のない「やす」言葉であって、これこそ「船場特有のもの」とされている[35]

その他、『細雪』に於る関西方言の特徴では、四姉妹の叔母にあたる富永の叔母が使用する「昔ながら船場言葉」があげられる。
「今日は雪子ちやんもこいさんもお内にゐてやおまへんか」(富永の叔母→幸子 『細雪』上巻・二十二)
「さうですか、それであたしも使に來た甲斐がごわしたわ」(富永の叔母→幸子 『細雪』上巻・二十二)
楳垣実によれば、「これだけの簡単な対話に船場言葉の代表的語法がこれだけ現れていることは、たしかに注目すべきことであって、谷崎氏は確かな資料に基いて書かれたものと信じてよかろう[36]」と述べており、谷崎の関西方言が相当なものであることが示される。

船場商人独特の呼称の例[37]

主人一族への呼びかけ

おやだんさん(主人の父)

おえさん・おえはん(主人の母)

だんさん・だなはん(主人)

隠居後は、ごいんきょはん。


ごりょんさん(主人の妻)

隠居後は、いんきょのおえはん。さらに後家になった後は、おこひっつぁん。


ぼんさん・ぼんぼん(主人の息子)

複数いる場合、上から順に、あにぼんさん、なかぼんさん、こぼんさん。

成人後は、わかだんさん。その妻は、わかごりょんさん。


いとさん・いとはん・とおはん(主人の娘)

複数いる場合、上から順に、あねいとさん、なかいとさん、こいとさん・こいさん、こいこいさん。二人の場合は上から順に、いとさん、こいさん。



奉公人の呼称

ばんとはん(番頭)

各人を呼ぶ時は名前に「どん」を付けた。(例:五助どん)


おみせのおかた・おみせのん(店員)

でっちさん・こどもっさん・ぼんさん(丁稚)

各人を呼ぶ時は男女かかわらず名前に「どん」または「とん」を付けた。(例:定吉どん、さだきっとん、吉どん、よしどん)さらに、丁稚や下男下女の通称としてだれでもいいから手伝いを呼ぶ際などに(さだきっとん、吉どん)の呼び方が多用された。


おとこっさん(下男)、おなごっさん(下女)

おんばはん(乳母)、だきんばはん(乳を与えず、抱っこするだけの乳母)、もりさん(子守り)



しゃれ言葉

大阪では様々な駄洒落言葉が発達した。近世大坂は、「諸色値段相場の元方」である堂島米市場、天満青物市場、雑喉場魚市場の三大市場を擁し、全国の物資・物流の集散地であった。中之島には諸藩の蔵屋敷が並び、「出船千艘・入船千艘」の活況を呈した。こうしてヒト・モノ・カネ・情報が集積する大坂は一大商都であり、商行為にはコミュニケーションが必須であった。

とはいえ、己の利益をただ露骨に表明するだけでは、顧客の心を掴むことはできない。一方、甘言を弄して顧客に媚びるだけではかえって警戒されるし、仮にうまく成約にこぎつけても、すぐに飽きられてしまう。そこで、相手の気を逸らさないようにしつつ、同時に己の相応の利も確保するという巧みな会話力が必要とされた。その際に威力を発揮したのが「しゃれ言葉」であった。依頼・勧誘・哀願・保留・交渉・譲歩・提案・謝絶・皮肉・揶揄・賞讃などを、しゃれを介して柔らかく朗らかに、しかし芯をぶらすことなく、相手に伝えたのである。

しゃれ言葉は人々の日常会話の中で不断に生み出され、多くの人々の共感を得た秀作は残り、意味がとりにくいものや面白みに欠けるものは時代の波に洗われて消えていった。以下に実例を例示する。

白犬のおいど:面白い(尾も白い)

黒犬のおいど:面白うない(尾も白うない)

牛のおいど:物知り(モーの尻)

うどん屋の釜:言うばかり(湯ぅばかり)

雪隠場の火事:やけくそ(焼け糞)

五合とっくり:一生つまらん(一升詰まらぬ)

蟻が十匹、猿が五匹:ありがとうござる(蟻が十、五猿)

夜明けの行灯:薄ぼんやり

蛸の天麩羅:揚げ足をとる

竹屋の火事:ポンポンいう

酢屋の看板:上手(上酢)

鰯煮た鍋:(男女が)くさい仲である・どうも臭う

ちびた鋸:(仲が)切っても切れない

春の夕暮れ:ケチ(くれそうでくれん)

赤子の行水:金足らいで泣いている(金盥で泣いている)

狐のやいと:困窮している(コン灸)

馬のやいと:貧窮している(ヒン灸)

無地の羽織:一文なし(一紋なし)

役割語としての大阪弁

漫画やドラマなどのフィクションの世界において、大阪弁および関西弁は一定のステレオタイプを伴う役割語として描かれることがある。「役割語」の提唱者である金水敏は、大阪弁を話す登場人物がいたらほぼ間違いなく、以下のステレオタイプを1つか2つ以上持っていると述べている[38]。また、ステレオタイプな役割語は表現者の意図した、あるいは意図しない偏見・差別意識を伝える場合があると指摘している[39]
冗談好き、笑わせ好き、おしゃべり好き

けち、守銭奴、拝金主義者

食通、食いしん坊

派手好き

好色、下品

ど根性(逆境に強く、エネルギッシュにそれを乗り越えていく)

なお、大阪では本来、「ど根性」とは悪い根性を意味する語であった[40]。本来の大阪弁で現在の「ど根性」のニュアンスに近い語は「土性骨」である[41]


やくざ、暴力団、恐い

2から6はいずれも、直感的・現実的な快楽や欲望をなりふり構わず肯定、追求しようとする性質と結びついている。それは周囲の常識人から顰蹙を買い、嘲笑や軽蔑の対象となるが、一方で1と結びついて愛すべき道化役となり、また偽善・権威・理想・規範といった縛りを笑い飛ばす役回りにもなる。すなわち、ステレオタイプな大阪人・関西人はトリックスターの役どころを与えられていると金水は指摘する[42]

1から6のステレオタイプは、江戸時代後期には既に相当完成されていたとされる。江戸時代、上方では現実的で経済性を重んじる気風があり、また商交渉を円滑にするため饒舌が歓迎されていたと考えられる。


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