大阪弁
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「もうかりまっか」の対として知られている「ぼちぼちでんな」(「ぼちぼちですな」の転)は現在も多用される表現であるが[16]、「もうかりまっか」→「ぼちぼちでんな」という挨拶の組み合わせは菊田一夫の小説内で作られたものであり、近年の大阪でこの遣り取りが模倣されるのは関東から見た大阪弁のイメージを逆輸入した結果に過ぎない。大阪市浪速区生まれの放送作家である新野新は「『阪僑』という言葉は、評論家大宅壮一の造語だが、ぼくの推論として、その流れをくむ週刊ジャーナリズムが、昭和20年代の後半に『大阪人は顔を合わせると『もうかりまっか』とあいさつする』と言い出したのではないだろうか」と推察している[17]


船場言葉

船場言葉(せんばことば)は、大阪市の中心業務地区である船場商家で用いられた言葉。船場言葉は、豊臣秀吉が大阪に築城し、その後、徳川幕府の支配を受けるようになった江戸時代を経て、明治大正昭和中期に至るまでの間に、美しく格式のある大阪商人の言葉として練り上げられ[18]、折り目正しい大阪弁の代表格として意識されていた。大阪弁研究家の前田勇は船場言葉について「大阪弁は庶民的な言語であるというのが通説であるけれども、少なくとも船場言葉にそれは当たらず、船場言葉は、いうべくば貴族的以外の何物でもない。」と評した[19]

江戸時代から近代初期にかけて、船場は商都大坂の中心地として繁栄し、船場言葉は商業社会の共通語として広く用いられた。豊臣秀吉が船場を開発した当初はから強制移住させられた商人が大半を占めていたが、その後は平野商人、伏見商人らが台頭。江戸時代中期には近江商人が船場へ進出した。このような経緯から、船場言葉は各地商人の言葉が混ざり合って成立した。

商いという職業柄、丁寧かつ上品な言葉遣いが求められたため、京言葉(とりわけ御所言葉)の表現を多く取り入れ、独自のまろやかな語感・表現が発達した。一口に船場言葉といっても、話し相手や状況、業種、役職などによって言葉が細かく分かれていた。暖簾を守る船場商人に限っては、経営者(主人、旦那)一族と従業員(奉公人)の独特の呼称を固定して用いた(後述)。

明治以後、中等・高等教育の普及による標準語化(船場言葉の使用層は裕福な家庭が多く、教育熱が高かった)や帝塚山阪神間の宅地開発に伴う船場商人の職住分離化(阪神間モダニズム)で船場言葉は変質していった。

大正時代、大阪へは他県の人がどんどん職を求めて移入してきた。移住者は、この難解な船場言葉を容易になじめず、彼らの影響を受けたのは西横堀川以西の言葉であった。西横堀のことに、阿波座という地域は扱う商品のたちが異なり、大部分の商家は、悠長で優雅な船場言葉を使っていられなかったので、最も単的な、最もスピーディーな商業言葉で売買しなくてはならなかった。地域とともにこのような言葉が四方へ伸びてゆき、その郡部の素朴な土地の言葉が入れ混じった。そのなかで船場言葉は、孤立無援の状態に置かれていた。しかし、第一次世界大戦前後から、船場の人々の生活状態が変わってきた。日の光が射さない冷え冷えした古い家屋の中、商売の拡張と共に店舗は少しずつ住居を浸食していた。そんな中、郊外電車が発達しそれらの郊外電車は、郊外生活の快適を宣伝した。最初は成金や株成金が、浜寺御影に別荘を建て、そのブームは続いて、財あるものは猫も杓子も別荘熱に浮かされた。船場商人にもそれは伝染した。郊外の別荘は、もう別荘ではなく本宅となってしまった。船場言葉もまた、その人たちとともに郊外へはじき出されてしまった。

また、更に時代が下がって、昭和10年前後の、あの『細雪』の時代になると、船場言葉もさらに変化していった。『細雪』の姉妹たちが使っている船場言葉であるが、これは色々な方言の入れまじったチャンポン船場言葉になってしまっている。だから、あれが正統な船場言葉だと誤解しないようにしなければいけない[20]谷崎氏の「細雪」は大阪弁の美しさを文学に再現したという点では、比類なきものであるが、しかし、この小説を読んだある全くズブの素人の読者が「あの大阪弁はあら神戸言葉や」と言った。「細雪」は大阪と神戸の中間、つまり阪神間の有閑家庭を描いたものであって、それだけに純大阪の言葉ではない。大阪弁と神戸弁の合の子のような言葉が使われているから、読者はあれを純大阪の言葉と思ってはならない。 ? 織田作之助『大阪の可能性』[21]

すると、果たしていつの時代の船場言葉が正統な船場言葉であるか、疑問となる。辛うじて見出せるのは、船場に店舗と住居が一緒にあり、雇人と家族とが同じ屋根の下で暮らしていて、大部分の商家が会社にならない個人経営の時でなければならない。産業資本主義が勃興するなか、なお商業資本主義が幅をきかしていて、大阪近郊の郊外電車も発達していない明治末期から大正初期と想定される[22]

その後、大阪大空襲や戦後の混乱による旧来住人の離散や、高度経済成長による商習慣の変化や企業の東京移転などが原因となって船場言葉は急速に衰退し、今では上方落語古典落語などで耳にする他は、限られた高齢者にしか船場言葉は残っていない。船場言葉を守り伝えようとする動きもあり、例えば1983年に結成された「なにわことばのつどい」では約200人の会員が活動している[23]。2015年度のNHK朝ドラ「あさが来た」では、明治?大正時代の商家がモデルになり、主人公の「白岡あさ」(演:波瑠)の他、様々な登場人物においても船場言葉が使用されている。これらの指導は松寺千恵美が行っていた。
特徴

船場言葉は子音の省略をせず、冠詞などを文につけて話すため、標準語が同じ文章でも、河内弁より言葉数が多くなる。よって話す速度が遅くなり、その分聞き取りがしやすくなって、丁寧な印象がうまれるとされる。一般の大阪弁と比べると速度にほとんど差はないが、大阪弁は他の方言より早く話すとされているため[24]、大阪弁の中ではゆっくりと話す言葉と考えられる。また、京言葉に似ているということに、聞き手が無意識にでも気づいた場合、京言葉のやさしい、やわらかいといった印象も付加される。なお、美しいといった印象は無声音の多用による部分が多いと考えられる。

船場言葉が聞き手に丁寧な印象を与える主な要因は、言葉を省略せずに話すことにある。言葉を省略してしまうと昨今の若者言葉にもみられるように、軽い印象を与えてしまう。聞き手に分かりやすく話すことが落ち着いた印象をつくりだし、ゆっくりと話すこと、言葉の省略をしないことなど、聞き手にわかりやすい話し方をすることで、丁寧な印象を与える[25]

随筆家の森田たまは、牧村の「大阪言葉事典」の書評で、船場言葉を「まったくびろうどの布の上に玉をすべらせているようだった。なめらかで艶であった。」と評している[26]

「大阪弁善哉」では、「綺麗で滑らかで、なんとなくまったりした、やわらかく優雅な言葉、幅のある表現のなかに適度にユーモアをたたえた、苦労を知ったうえの気取らなさがあり、そのうえ、うっかりすると聞き逃してしまうかもわからぬような諷刺が、そのなかにそっと包まれていて、それが少しも耳立たない。」と評している。

しかし、香村菊雄によると、「船場言葉もびろうどの布の上に玉をすべらせるような、優雅な場合ばかりとは限らず、一度、船場言葉でねっとりと絡まれると、何ともいえぬ、意地悪(いけず)さがぬらりくらりと這い回って、まるで真綿で首というか、くちな(蛇)にじわじわ締め付けられてゆくような恐ろしさがある。それは怒っているときであり、皮肉を言う時である。」と述べている。

以下は、船場の人である香村の母親の会話例である。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}へえへえ、わたしらは尋常(小学校)もろくにあがらん無学文盲でごあす。お賢いあんさんみたいなお方はんの、ねき(傍)にも寄られいたしやへん。せえだい(精々).mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}悪口(あっこ)おっしゃっとくれやす。けどなああんさん。親をないがしろにおしやしたら、どないな報いが参じますやら、存じやへんでごあっせ。

という調子であり、鰻谷で生まれ育った香村の妻はこの船場言葉を聞くと、さぶいぼが立つと恐れおののいたという。鰻谷のある島之内は、今は埋め立てられた長堀川の南岸に位置し、川幅20mの北対岸が船場である。このように、たった20mの川一つが国境でもあるかのように、言葉も違えば気質も風習も違っていた[27]
表現

大阪の人間は挨拶代わりに「儲かりまっか」という表現をとる、と云われるが、昔の船場の人々は、絶対にそんな一旗組の、新興商人のような下品な挨拶はしなかった。また、「これ負けてんか」「負けときまひょ」などのズケズケした品のない取引もしなかった。同じことでも「もうちょっと何とかなりまへんか」「さいでごあんなぁ。あとあとのこともごあすし、清水の舞台から飛びおりたつもりで、勉強さしていただきやす」というような、相手を奉った物柔らかい調子であった[28]

木村元三は、母親の使う船場言葉を聞いて、穏やかで、相手を非難したり、争いをするようなことはひとつもなく、ボキャブラリーが豊かで、言いたいことを過不足なく伝えられて、相手への思いやりがあふれている。語感もすっきりして、言葉としても完成されていた、と回想している。また、「「もうかりまっか」とかいうのが大阪弁の典型みたいにいわれてますけど、大阪の商売人はそんなん使(つこ)たことないです。他所(よそ)から来た人が流行らした言葉でしょうな。」と語っており。大阪人は、「ごあへん」「ごあっさかい」とか、しゃちこばらず、角のとれた言葉で、しかも十分、礼儀を尽くした言葉を使っていた、と語っている[29][30]
語彙

明治末から親しい女の子同士が話すとき、「そやわ」とか、「あかんわ」「ええわ」などの「わ」は「そやし」「あかんし」「ええし」など「し」に変化した。が、これは遊女の言葉からきたというので、年寄りなどはこの表現を厳しく禁じていた
[31]。 

「したろか」だとか、「いてこましたろか」「やったるで」などのよく知られる大阪弁も、品のない言葉だから、たとえ冗談でも使わないように戒めていた[32]

船場言葉は、よそ行きの言葉と日常の言葉、目下の者、友人同士、奉公人同士などの変化があり、親しいもの同士の場合は、うんとくだけて河内弁も入った。喧嘩の場合などはドスをきかせるために、ガラの悪い言葉も出た[33]

できる限り丁寧な表現を用いるように努め、一般の大阪市民が多用した「おます」や「だす」よりも、「ござります」や「ごわす・ごあす」を多用した。「ごわす」は「ござります」が変化したもので、船場独特のややくだけた丁寧語として知られた。否定形は「ごわへん」または「ごあへん」。

尊敬語に関しても、一般市民が多用した「なはる」や「はる」よりも、その原型である「なさる」や京言葉から取り入れた「お…やす」を多用した。


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