定時制廃止反対運動を機に、市岡高校定時制同窓会「田龍会」など学校関係者や有志ボランティアが中心となって、1996年に来日外国人などを対象にした「市岡日本語教室」を設置した。当初は市岡高校会議室などを借りる形で運営したが、その後主な教室は港区民センターへと移っている。日本語教室の運営母体として1996年に市岡国際教育協会を設置し、同協会は1999年にNPO法人となった[8]。 三本線の帽子で知られる硬式野球部は、春夏あわせて21回(春11回・夏10回)甲子園に出場している。夏は1916年の第2回大会にて初出場・準優勝、春は1924年の第1回大会にて初出場・ベスト4の成績をあげている。甲子園球場で行われるようになった夏の第10回大会と春の第2回大会にも出場しており、大会と球場の両方の意味において春夏とも甲子園に最初に出場した大阪の学校である。夏は第1回大会から欠かさず地方大会に参加している皆勤校(大阪の学校では唯一)であるが、夏の第1回大会の地方大会は大阪大会ではなく関西大会(大阪・奈良・和歌山)で、和歌山県立和歌山中学校(現在の和歌山県立桐蔭高等学校)に決勝で敗れた。学制改革後の甲子園出場は春4回・夏0回にとどまっている。夏の第105大会の大阪大会では雨天順延と体調不良者による棄権で1試合もしないままに大会を去ったが連続出場は継続とみなされている[10]。 軟式野球部は、1986年に第31回全国高等学校軟式野球選手権大会に出場した。 サッカー部は、6回の全国大会出場経験があり、最高成績はベスト4。 女子テニス部は、1950年のインターハイで全国優勝(団体)した。
年表
1901年3月 - 大阪市西区市岡町(現在地)に大阪府第七中学校を設置。
1901年4月1日 - 大阪府市岡中学校として開校。
1901年6月3日 - 大阪府立市岡中学校に改称。
1933年 - 日本最初の普通科夜間中学として大阪府立夜間中学校開校。
1948年 - 学制改革により大阪府立市岡高等学校と改称し、大阪府立港高等学校(旧制大阪府立市岡高等女学校)・大阪市立西華高等学校(旧制大阪市立西華高等女学校)と生徒・職員を交流して男女共学を実施。
1950年 - 大阪府立市岡夜間中学校が合併し、定時制課程となる。
1968年9月2日 - 校長室が占拠される。
1972年 - 制服自由化を実施。
1998年 - 定時制課程を廃止。同窓会の100周年記念事業「市岡の森」が舞洲に完成。
2009年 - 全日制単位制高校へ改編。
2021年 - 従来の2学期制から3学期制に変更[9]。
部活動
交通
JR西日本(大阪環状線)・Osaka Metro(中央線) 弁天町駅より徒歩約5分(南東へ約400m)
大阪シティバス・市岡元町バス停より徒歩約2分(東へ約200m)
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政治・行政
奥宮正武 - 戦史家、大本営海軍参謀、元航空自衛隊空将(旧中22期)
影佐禎昭 - 大日本帝国陸軍中将(旧中5期)
左近正男 - 元日本社会党の衆議院議員(高校7期)[要出典]
瀬野憲一 - 守口市長(高校35期)
中井光次 - 元大阪市長、元内務省(旧中6期)
福間知之 - 元日本社会党の参議院議員(旧中38期)
安岡澄人[11] - 農林水産省消費・安全局長(第12代)