大阪市立南小学校
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1893年には道仁尋常小学校の名称に戻している[6]
芦池小学校・渥美小学校

1873年6月24日、南大組第六区小学校(芦池小学校)が創立した[7]1887年には芦池尋常小学校へ改称している。

また渥美小学校については、1872年9月18日に南大組第五区小学校(渥美小学校)として創立した[8]。安堂小学校などの名称を経て、1886年に渥美尋常小学校となった。
精華小学校・河原小学校

精華小学校は1873年2月9日、南大組第十四区小学校として、西坂町20番地・法祐寺境内で開校した[9][10]。坂町小学校・新川小学校・相生小学校などと改称したのち、1900年6月には戎橋筋(最終所在地)に移転し、移転とともに精華尋常小学校と称した。

精華小学校は1929年に鉄筋コンクリート造の新校舎を、住民の資金で設立した。大阪市では、1927年3月まで学区制を取っていた。ここでの学区制は「校区・通学区域」の意味ではなく、市内を学校設置・運営区域の財産区としての学区に分け、学校にかかる費用は大阪市の直営ではなく地域の財産として運営する制度のことを指す。しかし、市内の学区間すなわち地域間の経済格差などにより学校の設備格差が目立つなどの弊害が顕在化したことから、学区制を廃止して大阪市が一元的に小学校を運営する方式へと変更された[11]。精華学区では学区制廃止が決まったことを受けて、地域の財産・象徴として、また地域から将来のこどもたちおよび学校に残すものとして、かねてから学区として校舎改築を目指して積み立てていた積立金などをもとに、学区・地域の力で豪華な校舎を作って寄付することになった。校舎設計は建築家・増田清が手がけ、1927年3月に起工し1929年に竣工した。アーチ状の梁や天井、シャンデリア照明などを備え、文化財的にも価値を持っていたと評価されていた。当時の学校では、児童の机は2人掛けの机が一般的だったが、精華校では児童が高さを調節できる1人掛けの机とイスを導入した。校舎設置当初はエレベーターやスチーム暖房まで設置されていたというが、豪華すぎるとして戦時中に撤去されている[9][10]

また後年に精華小学校に合併することになる河原小学校については、1891年に当時の西成郡難波村に、難波尋常高等小学校[注釈 1]川東分校として設立された。1893年に西成郡難波第三尋常小学校として独立した。難波村が1897年に大阪市に編入されたことに伴い、同年より大阪市難波第三尋常小学校と称した。難波第三尋常小学校は1921年、難波河原尋常小学校へと改称している。
国民学校

明治時代中期以降昭和時代初期まで、現在の校区にあたる地域には、精華・大宝・御津・渥美・道仁・芦池・河原の7小学校が設置されていた。

国民学校令により、1941年に各尋常小学校は国民学校へと改編された。基本的に従来の小学校名をそのまま国民学校の名称として受け継いだが、難波河原尋常小学校については冠称の「難波」をとり河原国民学校となった。

1943年には大阪市の行政区の22区への分増区と区の境界調整を全市的におこなう再編により、河原国民学校校区が浪速区から南区に編入された。
中等学校への校舎転用

大阪市では明治時代後期以降、旧制中学校や高等女学校など中等教育諸学校の入学難状態が慢性化していた。中等学校の入学難解消の一環として、大阪市では1940年代前半、市立の中等学校を増設する策をとった。

また太平洋戦争の戦時体制の一環として、1943年10月に出された教育ニ関スル戦時非常措置方策により、男子商業学校は一部の例外を除いて工業学校・農業学校・女子商業学校などに改編するよう求められた。これに伴って大阪市立の男子商業学校は一部を除いて工業学校に戦時転換され、それを受けた商業学校不足に対応して市立の女子商業学校を増設して戦時動員を図る体制がとられた。

大阪市では、中等学校の校地を探し校舎を新設する余裕がないとして、既存の国民学校を近隣校に統合させる形で廃校とし、空いた校舎を中等学校として転用する策をとった。

地域では御津・芦池・河原の3校が校舎転用の対象となった。

御津国民学校は1944年に大宝国民学校に統合されて閉校となった[5]。跡地に御津女子商業学校[注釈 2]が新設された[5]

芦池国民学校は1944年に渥美国民学校に統合されて閉校となった[7]。跡地に芦池女子商業学校[注釈 3]が新設された[7]

河原国民学校は1944年に精華国民学校に統合されて閉校となった。跡地には河原女子商業学校[注釈 4]が設置された。

1944年時点では、地域の国民学校は精華・大宝・渥美・道仁の4校となった。
学童疎開

太平洋戦争の戦局悪化により、政府は1944年、大阪市を含む大都市の国民学校初等科児童を学童疎開させる方針を決定した。疎開は縁故を原則としたが、縁故疎開に頼らない児童は学校単位で集団疎開を実施することになった。大阪市では国の方針を受けて学童疎開を具体化し、当時の22行政区各区ごとに集団疎開先の府県を指定した。当時の南区では滋賀県への疎開が割り当てられ、1944年8月下旬以降疎開先へと出発した。

大宝国民学校は犬上郡高宮町(現・彦根市)、東甲良村西甲良村(現・甲良町)、多賀村(現・多賀町)、道仁国民学校は愛知郡愛知川町秦川村(以上、現在の愛荘町)、日枝村(現・豊郷町)、精華国民学校は愛知郡東押立村豊椋村西小椋村角井村(いずれも現在の東近江市)、渥美国民学校は長浜市へ、それぞれ集団疎開が実施された[12]
戦災による休校・統廃合

1945年3月13日深夜から翌3月14日未明にかけての第一次大阪大空襲では、当時の南区は壊滅的な被害を受けた。大阪大空襲により渥美国民学校は全焼している。大宝・道仁・精華の各校は校舎被災を免れたものの、校区に大きな被害を受けた。空襲被害以降、各校とも児童数が激減し、渥美校に至っては1945年度の新入生は0だった。

また太平洋戦争の終戦に伴い、大阪商科大学[注釈 5]の杉本町学舎はGHQに接収された。そのため大阪商科大学は、焼け残った道仁小学校校舎に仮校舎を置くことになった。

大阪市では、校舎の焼失・地域の被災での校区児童数減少や、校舎を別用途に転用することになったなどの状況になった国民学校については、終戦直後に休校扱いとし、近隣校に統合集約することにした。そのため1945年秋より南区の近隣の学校は大宝国民学校を借用して授業を実施し、1946年には道仁・精華・渥美・高津の4校を休校として大宝国民学校に統合することになった。

現在の南小学校校区にあたる地域では、終戦直後の1946年には大宝国民学校1校のみとなった。

精華国民学校は休校中、大阪市の文化施設や店舗などに転用された。戦中に休止状態になっていた大阪市立図書館は「大阪市立育英図書館」の名称で、1946年に精華国民学校敷地を使用して復興開館している[13]
学校再開から統合へ

1947年には学制改革により、大阪市立大宝小学校が発足した。

その後戦災からの復興により、休校となった学校の再開を求める地域住民の声があがるようになった。

1948年には大阪市立精華小学校が再開した。再開の際に、元々の精華小学校校区および1944年に統合した河原小学校校区のほか、戦災で休校となっていた高津小学校校区を精華小学校校区に編入した形になった。高津小学校は1952年に大阪市立高津小学校として再開している[10][14]

芦池小学校校区は1944年に渥美小学校に合併されたのち、戦後は渥美小学校の休校に伴い大宝小学校校区に編入された形になっていた[7][8]。芦池小学校跡地に設置された芦池女子商業学校は、男子校だった住吉商業学校を芦池校舎に移転させて同居させて、芦池女子商業・住吉商業の両校が合併する形で、男女共学の新制大阪市立住吉商業高等学校として授業を開始した[15]


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