河原国民学校は1944年に精華国民学校に統合されて閉校となった。跡地には河原女子商業学校[注釈 4]が設置された。
1944年時点では、地域の国民学校は精華・大宝・渥美・道仁の4校となった。 太平洋戦争の戦局悪化により、政府は1944年、大阪市を含む大都市の国民学校初等科児童を学童疎開させる方針を決定した。疎開は縁故を原則としたが、縁故疎開に頼らない児童は学校単位で集団疎開を実施することになった。大阪市では国の方針を受けて学童疎開を具体化し、当時の22行政区各区ごとに集団疎開先の府県を指定した。当時の南区では滋賀県への疎開が割り当てられ、1944年8月下旬以降疎開先へと出発した。 大宝国民学校は犬上郡高宮町(現・彦根市)、東甲良村・西甲良村(現・甲良町)、多賀村(現・多賀町)、道仁国民学校は愛知郡愛知川町・秦川村(以上、現在の愛荘町)、日枝村(現・豊郷町)、精華国民学校は愛知郡東押立村・豊椋村・西小椋村・角井村(いずれも現在の東近江市)、渥美国民学校は長浜市へ、それぞれ集団疎開が実施された[12]。 1945年3月13日深夜から翌3月14日未明にかけての第一次大阪大空襲では、当時の南区は壊滅的な被害を受けた。大阪大空襲により渥美国民学校は全焼している。大宝・道仁・精華の各校は校舎被災を免れたものの、校区に大きな被害を受けた。空襲被害以降、各校とも児童数が激減し、渥美校に至っては1945年度の新入生は0だった。 また太平洋戦争の終戦に伴い、大阪商科大学[注釈 5]の杉本町学舎はGHQに接収された。そのため大阪商科大学は、焼け残った道仁小学校校舎に仮校舎を置くことになった。 大阪市では、校舎の焼失・地域の被災での校区児童数減少や、校舎を別用途に転用することになったなどの状況になった国民学校については、終戦直後に休校扱いとし、近隣校に統合集約することにした。そのため1945年秋より南区の近隣の学校は大宝国民学校を借用して授業を実施し、1946年には道仁・精華・渥美・高津の4校を休校として大宝国民学校に統合することになった。 現在の南小学校校区にあたる地域では、終戦直後の1946年には大宝国民学校1校のみとなった。 精華国民学校は休校中、大阪市の文化施設や店舗などに転用された。戦中に休止状態になっていた大阪市立図書館は「大阪市立育英図書館」の名称で、1946年に精華国民学校敷地を使用して復興開館している[13]。 1947年には学制改革により、大阪市立大宝小学校が発足した。 その後戦災からの復興により、休校となった学校の再開を求める地域住民の声があがるようになった。 1948年には大阪市立精華小学校が再開した。再開の際に、元々の精華小学校校区および1944年に統合した河原小学校校区のほか、戦災で休校となっていた高津小学校校区を精華小学校校区に編入した形になった。高津小学校は1952年に大阪市立高津小学校として再開している[10][14]。 芦池小学校校区は1944年に渥美小学校に合併されたのち、戦後は渥美小学校の休校に伴い大宝小学校校区に編入された形になっていた[7][8]。芦池小学校跡地に設置された芦池女子商業学校は、男子校だった住吉商業学校を芦池校舎に移転させて同居させて、芦池女子商業・住吉商業の両校が合併する形で、男女共学の新制大阪市立住吉商業高等学校として授業を開始した[15]。住吉商業高等学校は1952年、住吉区南加賀屋町(現在の住之江区御崎)の旧住吉商業学校敷地に復帰した[15]。住吉商業高等学校の退去後、地域住民の学校再開の希望を受け、1952年に元の芦池小学校敷地で、大阪市立芦池小学校が再開している[7]。 大阪市立道仁小学校は1954年に再開している。 1954年以降、地域には大宝・道仁・芦池・精華の4小学校が立地する形になった。なお戦前の渥美・御津・河原の3校は再開することなく廃校となっている。 地域には4つの小学校が再開したものの、都心部のドーナツ化現象による地域人口の減少に加え、1960年代後半以降越境入学に対して厳しい対応がとられるようになったことも加わり、1970年代頃から児童数の減少傾向が目立つようになった。 そのため大宝・道仁・芦池の3小学校統合の構想が具体化した。統合校は大阪市立南小学校と名付けられ、旧大宝小学校の敷地を転用して1987年4月1日付で開校した。 さらに精華小学校でも児童数が減少したことから統合の構想が打ち出され、南小学校に合流することになった。精華小学校は1995年3月31日付で閉校となり、翌4月1日付で南小学校に統合されている。 大宝小学校 道仁小学校 芦池小学校 精華小学校
学童疎開
戦災による休校・統廃合
学校再開から統合へ
南小学校への統合
年表
南小学校
1987年 - 大宝・道仁・芦池の3小学校統合で、大阪市立南小学校が開校。
1995年 - 精華小学校を統合。
2016年 - 文部科学省から人権教育研究推進事業指定校に指定される。
2018年 - ユネスコスクールに認定される[2]。
前身校
1872年5月15日 - 南大組第十区小学校が開校。のち大阪市大宝尋常小学校と称する。
1886年 - 千年小学校(南大組第九区小学校として1872年設立)を合併。
1941年 - 大阪市大宝国民学校に改称。
1944年2月25日 - 御津国民学校は大宝国民学校に合併し廃校。御津校敷地は御津女子商業学校へ転用。
御津国民学校 - 三津(1873年設立)・清水(1872年設立)の2校が1880年に統合し、三津清水小学校が開校。のち大阪市御津尋常小学校、1941年大阪市御津国民学校と称する。
1946年4月1日 - 戦災により、精華・道仁・渥美・高津の4校休校、大宝国民学校へ統合。
1947年 - 学制改革により大阪市立大宝小学校が発足。
1948年4月1日 - 大阪市立精華小学校が再開校(精華・高津校区を分離)。
1952年 - 大阪市立芦池小学校が再開校。
1954年 - 大阪市立道仁小学校が再開校。
1970年 - 大阪府教育委員会から特殊教育(障害児教育)の研究校に指定される。
1987年3月31日 - 閉校。
1873年3月 - 南大組第十一区小学校が開校。のち大阪市道仁尋常小学校と称する。
1941年 - 大阪市道仁国民学校に改称。
1946年 - 校舎を大阪商科大学の仮校舎に明け渡し休校。大宝国民学校に統合。
1954年 - 大阪市立道仁小学校として再開。
1987年3月31日 - 閉校。
1873年6月24日 - 南大組第六区小学校が開校。のち芦池尋常小学校と称する。
1941年 - 大阪市芦池国民学校に改称。
1944年4月1日 - 芦池国民学校は渥美国民学校に合併し廃校。芦池校の校舎は芦池女子商業学校に転用。
渥美国民学校 - 1872年9月18日南大組第五区小学校として開校。のち渥美尋常小学校。1941年渥美国民学校と称する。
1945年 - 渥美国民学校、空襲で全焼。
1946年 - 戦災により、渥美国民学校は大宝国民学校に統合され休校・のち廃校。
1952年4月1日 - 旧芦池校敷地で、大阪市立芦池小学校として復興・再開校。
1987年3月31日 - 閉校。
1873年2月9日 - 南大組第十四区小学校として開校。のち坂町小学校・相生小学校などと改称。
1900年 - 戎橋筋(最終所在地)に移転。移転と同時に、従来の大阪市相生尋常小学校から大阪市精華尋常小学校へ改称。
1941年 - 大阪市精華国民学校に改称。
1944年4月1日 - 河原国民学校は精華国民学校に合併し廃校。河原校の校舎は河原女子商業学校に転用。
河原国民学校 - 1891年西成郡難波村に難波尋常小学校川東分校を設置。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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