大阪市立南小学校
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2010年代以降、外国にルーツをもつ児童の在籍数および全児童に占める割合が急増していることを反映して、地域と協働しての多文化共生教育・国際理解教育に力を入れている[2][3][4]。多文化共生教育・国際理解教育と密接に関連する取り組みとして、地域学習や人権教育の分野にも力を入れている[2]。2018年度にユネスコスクールに認定された。
沿革

大阪市立大宝小学校
北緯34度40分24秒 東経135度30分14.4秒 / 北緯34.67333度 東経135.504000度 / 34.67333; 135.504000
過去の名称南大組第十区小学校
南区大宝小学校
南区清泉尋常小学校
大阪市大宝尋常小学校
大阪市大宝国民学校
国公私立の別公立学校
設置者大阪市
併合学校南区千年小学校
大阪市御津国民学校
大阪市渥美国民学校
設立年月日1872年3月15日
閉校年月日1987年3月31日
共学・別学男女共学
学校コードB127210000768
所在地542
大阪市南区大宝寺町中之町57
(現:中央区東心斎橋1丁目14番29号)
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大阪市立道仁小学校
北緯34度40分17.8秒 東経135度30分28.6秒 / 北緯34.671611度 東経135.507944度 / 34.671611; 135.507944
過去の名称南大組第十一区小学校
南区道仁小学校
南区雄帷尋常小学校
大阪市道仁尋常小学校
大阪市道仁国民学校
国公私立の別公立学校
設置者大阪市
閉校年月日1987年3月31日
共学・別学男女共学
学校コードB127210000768
所在地542
大阪市南区南綿屋町12
(現:中央区島之内2丁目12番31号)
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大阪市立芦池小学校
北緯34度40分37秒 東経135度30分7.5秒 / 北緯34.67694度 東経135.502083度 / 34.67694; 135.502083
過去の名称南大組第六区小学校
南区芦池小学校
大阪市芦池尋常小学校
大阪市芦池国民学校
国公私立の別公立学校
設置者大阪市
設立年月日1873年6月24日
閉校年月日1987年3月31日
共学・別学男女共学
学校コードB127210000768
所在地542
大阪市南区安堂寺橋通3-27
(現:中央区南船場3丁目7番)
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大阪市立精華小学校
大阪市立精華小学校 旧校舎(2009年8月)
北緯34度39分57秒 東経135度30分6秒 / 北緯34.66583度 東経135.50167度 / 34.66583; 135.50167
過去の名称南大組第十四区小学校
坂町小学校
南区新川小学校
南区相生尋常小学校
大阪市精華尋常小学校
大阪市精華国民学校
国公私立の別公立学校
設置者大阪市
併合学校大阪市河原国民学校
設立年月日1873年2月9日
閉校年月日1995年3月31日
共学・別学男女共学
学校コードB127210000768
所在地542
大阪市中央区難波3丁目2番26号
(旧:南区難波新地五番町27)
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本項では南小学校に加え、直接の前身校となる大宝・道仁・芦池・精華の4小学校、さらに前身校に合併して廃校となった学校の沿革についても記述する。
前身諸校の創立

1872年学制発布を受け、当時の大阪・南区に次々と小学校が設置された。これらが再編される形で、明治時代中期から昭和初期までに計7校の小学校となった。
大宝小学校・御津小学校

1872年3月15日に南大組第十区小学校(大宝小学校)、1873年12月13日に南大組第九区小学校(千年小学校)が開校した。

大宝小学校は1873年に最終所在地(現在の南小学校敷地)に移転した。大宝・千年の両小学校は1886年に合併し、清泉尋常小学校となった。旧大宝校を本校・旧千年校を分校とした。1893年には大宝尋常小学校の名称に復している。

また旧千年小学校敷地を使用し、1900年に大阪市立第二高等女学校(1901年大阪府立清水谷高等女学校に合併し廃校)、1906年に大阪府島之内高等女学校(現在の大阪府立夕陽丘高等学校)が開校している。

また後年に大宝小学校に合併する御津小学校については、1872年8月25日に清水小学校、1873年2月12日に三津小学校の2校がそれぞれ設置された。2校は1880年に合併し、南区西清水町(現在の中央区西心斎橋)・旧清水小学校敷地に三津清水小学校を設置した。三津清水小学校は1886年に御津尋常小学校へと改称した[5]
道仁小学校

1873年3月、南大組第十一区小学校(道仁小学校)が開校した[6]。1886年には雄帷(おとも)尋常小学校と称した。この名称は、この地が平安時代に雄帷郷と呼ばれていた故事に由来する。雄帷郷は、大伴氏にゆかりのある地名だともされる。1893年には道仁尋常小学校の名称に戻している[6]
芦池小学校・渥美小学校

1873年6月24日、南大組第六区小学校(芦池小学校)が創立した[7]1887年には芦池尋常小学校へ改称している。

また渥美小学校については、1872年9月18日に南大組第五区小学校(渥美小学校)として創立した[8]。安堂小学校などの名称を経て、1886年に渥美尋常小学校となった。
精華小学校・河原小学校

精華小学校は1873年2月9日、南大組第十四区小学校として、西坂町20番地・法祐寺境内で開校した[9][10]。坂町小学校・新川小学校・相生小学校などと改称したのち、1900年6月には戎橋筋(最終所在地)に移転し、移転とともに精華尋常小学校と称した。

精華小学校は1929年に鉄筋コンクリート造の新校舎を、住民の資金で設立した。大阪市では、1927年3月まで学区制を取っていた。ここでの学区制は「校区・通学区域」の意味ではなく、市内を学校設置・運営区域の財産区としての学区に分け、学校にかかる費用は大阪市の直営ではなく地域の財産として運営する制度のことを指す。しかし、市内の学区間すなわち地域間の経済格差などにより学校の設備格差が目立つなどの弊害が顕在化したことから、学区制を廃止して大阪市が一元的に小学校を運営する方式へと変更された[11]。精華学区では学区制廃止が決まったことを受けて、地域の財産・象徴として、また地域から将来のこどもたちおよび学校に残すものとして、かねてから学区として校舎改築を目指して積み立てていた積立金などをもとに、学区・地域の力で豪華な校舎を作って寄付することになった。校舎設計は建築家・増田清が手がけ、1927年3月に起工し1929年に竣工した。アーチ状の梁や天井、シャンデリア照明などを備え、文化財的にも価値を持っていたと評価されていた。当時の学校では、児童の机は2人掛けの机が一般的だったが、精華校では児童が高さを調節できる1人掛けの机とイスを導入した。校舎設置当初はエレベーターやスチーム暖房まで設置されていたというが、豪華すぎるとして戦時中に撤去されている[9][10]

また後年に精華小学校に合併することになる河原小学校については、1891年に当時の西成郡難波村に、難波尋常高等小学校[注釈 1]川東分校として設立された。1893年に西成郡難波第三尋常小学校として独立した。難波村が1897年に大阪市に編入されたことに伴い、同年より大阪市難波第三尋常小学校と称した。


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