大野藩
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中世、現在の大野市の中心地区周辺には亥山城[注釈 1][1][2][3]や戌山城[注釈 2][4][1]があり、室町時代初期に越前守護斯波氏一族の斯波義種[1]、戦国時代には朝倉氏一族の朝倉景鏡越前一向一揆杉浦玄任が大野郡支配の拠点とした[5][6]。戦国時代には町場も形成されていたことが史料に見えるという[5]

天正3年(1575年)、越前一向一揆を壊滅させた織田信長は、大野郡の3分の2を金森長近に与えた[7][5][注釈 3]。長近は当初戌山城に入ったが[4][8]、戌山の東にあって城下町の開発に便宜がある独立丘陵・亀山[注釈 4]に新たな城として大野城を築いた[5][9][8][10]。また、城下町として大野町を整備し[5][9][11]、美濃街道を整備して城下を通すこととした[9]。金森長近は豊臣政権下でも引き続き大野郡の3分の2を領していたが[12]、天正14年(1586年)に飛騨高山への転封が命じられた[13]。その後の大野には青木一矩、次いで織田秀雄織田信雄の子。「大野宰相」と呼ばれた)が入った[13][14][10]。織田秀雄は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後に改易された[15]
北荘藩領

関ヶ原の戦いののち、越前一国は結城秀康の支配下に入った[16]。秀康は重臣や腹心を領内の枢要の地に配置したが、大野には土屋昌春(正明[10][注釈 5]を入れて3万8000石を知行させた[17]。慶長12年(1607年)に秀康が死去すると、土屋昌春は殉死した[18]。徳川家康・秀忠は、重臣たちの殉死を禁じて年若い松平忠直(13歳)の補佐に当たらせる意向であったために[18]、土屋昌春の殉死は咎められ追罰を受けた[17]。慶長14年には小栗正高[注釈 6]が大野に入っている[17]。『当代記』によれば小栗を配置したことは家康の指示であるという[17]大坂の陣の際には重臣の加藤康寛木本領主5000石)が大野城に入り、留守中の一揆蜂起に備えている[19]

元和9年(1623年)、67万石の大名であった松平忠直は改易された[20][注釈 7]。一時は北ノ庄藩を世子の仙千代(のちの松平光長)に継がせる方針があったとされるが[注釈 8]、翌寛永元年(1624年)4月に仙千代は越後国高田藩に25万石で移され[21]、これと入れ替わりで越後高田藩主であった忠直の次弟松平忠昌が北ノ庄藩に移り、52万5280石が与えられた[21]。忠直の旧領[注釈 9]のうち大野郡は、忠直・忠昌の弟3人(直政・直基・直良)によって分割されることとなった。
越前松平家の時代

寛永元年(1624年)6月、松平直政に5万石(大野藩)、松平直基に3万石(越前勝山藩)、松平直良に2万5000石(木本藩)が与えられ、それぞれ大名に列した[21]

松平直政は結城秀康の三男で、元和2年(1616年)には兄の忠直から木本で1万石を与えられている[22]。その後、幕府から兄・忠昌の旧領であった上総国姉崎に領地を与えられて独立の大名(姉崎藩主)となっていた[22]寛永元年(1624年)、上述の事情で越前大野に5万石で移され、初代大野藩主となる[23]。直政は、寛永10年(1633年)4月に信濃松本藩へ移された[23]

大野藩領は一旦収公され、丸岡藩の預地となっていたが[23]、寛永12年(1635年)8月に越前勝山藩から松平直基(秀康の五男)が移された[23]。寛永21年(1644年)3月、直基は出羽山形藩へ移封され、代わって越前勝山藩より松平直良(秀康の六男)[注釈 10]が入った。延宝6年(1678年)に直良が死去すると、その子である直明が家督を継いだが、直明は天和2年(1682年)に播磨明石藩へ移封された。


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