大野藩
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忠直の旧領[注釈 9]のうち大野郡は、忠直・忠昌の弟3人(直政・直基・直良)によって分割されることとなった。
越前松平家の時代

寛永元年(1624年)6月、松平直政に5万石(大野藩)、松平直基に3万石(越前勝山藩)、松平直良に2万5000石(木本藩)が与えられ、それぞれ大名に列した[21]

松平直政は結城秀康の三男で、元和2年(1616年)には兄の忠直から木本で1万石を与えられている[22]。その後、幕府から兄・忠昌の旧領であった上総国姉崎に領地を与えられて独立の大名(姉崎藩主)となっていた[22]寛永元年(1624年)、上述の事情で越前大野に5万石で移され、初代大野藩主となる[23]。直政は、寛永10年(1633年)4月に信濃松本藩へ移された[23]

大野藩領は一旦収公され、丸岡藩の預地となっていたが[23]、寛永12年(1635年)8月に越前勝山藩から松平直基(秀康の五男)が移された[23]。寛永21年(1644年)3月、直基は出羽山形藩へ移封され、代わって越前勝山藩より松平直良(秀康の六男)[注釈 10]が入った。延宝6年(1678年)に直良が死去すると、その子である直明が家督を継いだが、直明は天和2年(1682年)に播磨明石藩へ移封された。

松平直政・直基・直良が兄弟で藩主を受け継ぐ形になっているが、家督相続によるものではなく、上述の通り転封によるものである。直政に与えられた5万石の領地はほぼ受け継がれた[24]。松平家の時代の藩政について、詳しいことはわかっておらず[25][26]、30年余の長期にわたった直良の時代に支配機構の整備が進んだこと[26]、大野町南方の原野「堀切野」の新田開発免許が安川与三右衛門に出されたこと[26]、面谷村(現在の大野市面谷)で銅山(面谷銅山)の開発を行ったものの近隣の村で鉱毒被害が生じたことなどが知られる[26]
土井家の時代
土井家の入封

天和2年(1682年)、松平直明に代わり、元老中土井利房土井利勝の四男[27])が大野藩に4万石で移された[28][注釈 11][29][27]。7月16日[27]に大野に入った利房は、領内を巡察し[27]、定書を相次いで発して領内の掌握を図った[28]。利房は翌天和3年(1683年)閏5月25日に死去し、その治世は1年に満たなかったが、大野藩政の基本を定めた[27]

大野藩は生産力が低く年貢増徴策も限りがあり、見るべき産業もないとされる中で厳しい財政運営が迫られることとなった[28]。藩士の削減などが図られているが[28]、元禄12年(1699年)には年貢減免などを要求する一揆が発生した[28]土井利忠は大坂加番について、むしろ藩財政に有利であったと述べている[30]
7代藩主・土井利忠大野城跡の「土井利忠公像」

天保年間に入ると飢饉が藩内を襲い、藩財政は大いに逼迫した。このような中で第7代藩主・土井利忠は財政再建を主とした藩政改革に取り組んだ。天保13年(1842年)に始まった改革令を「更始の令」という[31]。生産性の向上・教育制度の普及・有能な人材の登用・藩借金の整理などを行なった結果、改革後8年にして利忠は借金を処理することに成功した。安政5年(1858年) 幕府より北蝦夷地開拓の許可を得た。利忠は藩営病院の設立、西洋軍制の導入、種痘の実施、有能な人材の藩校就学の徹底と遊学の奨励など、積極的な改革を行なって多くの成功を収めた幕末期の名君であった。

藩政改革には内山良休(七郎右衛門)・良隆(隆佐)兄弟が登用され尽力した[28][31]。大野藩では特産品を作ることを奨励し、全国各地に藩営の取次店「大野屋」を置いて販売していたほか、大野屋の商品輸送や蝦夷地との往来のために西洋式帆船の大野丸を運航させた[32]。七郎右衛門良休は「大野屋」の開設や銅山経営などで手腕を発揮し、万延元年(1860年)に家老職に就いた[31]。隆佐は蝦夷地開拓や「大野丸」建造、蘭学の振興、軍備の刷新に努め、文久3年(1863年)に家老職と軍事総督を命じられたが家老職は辞退している[31]

江戸後期の大野藩は、特に西洋の先進技術の研究・摂取に熱心であった。石高4万石の小大名でありながら、藩を挙げて蘭学の原書や辞書を翻訳しており、当時の藩士や武家の子弟たちは自らも写本に励みながら、最先端の西洋の学問を学んだ。これらの洋書および翻訳の和書は、現在は福井県立大野高等学校に所蔵されている。
幕末から廃藩置県まで

文久2年(1862年)に利忠が病で隠退した後はその三男・土井利恒が藩主となる。

戊辰戦争では大野藩兵166名が箱館五稜郭の戦いに出兵しており、11名の戦死者を出した[28]。明治元年に「領分同様」とされた蝦夷地・北蝦夷地を返上している[28]

利恒は明治2年(1869年)の版籍奉還で大野藩知事となった。明治4年7月14日(グレゴリオ暦1871年8月29日)の廃藩置県にともない、大野藩は廃藩となり、大野県が設置された。同年11月20日(同年12月31日)に福井県(第1次)に編入された。
歴代藩主
雲州松平家

親藩 5万石

直政

結城松平家

親藩 5万石

直基

明石松平家

親藩 5万石
直良

直明

土井家

譜代 4万石
利房

利知

利寛

利貞

利義


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