天平11年(739年)陸奥国按察使兼鎮守府将軍に大養徳守を兼ねていたが、参議に任じられ公卿に列す。
天平12年(740年)9月に大宰少弐・藤原広嗣が九州で挙兵。東人は持節大将軍に任じられ、五道から徴発された1万7000人を率いて広嗣の討伐を命じられた。9月末に東人は長門国へ至ると、佐伯常人・阿倍虫麻呂に先発隊を率いさせて渡海させ板櫃鎮(豊前国企救郡)を攻略。10月に広嗣軍1万騎が板櫃河に到着して、佐伯常人らの官軍6000人余と会戦、官軍が広嗣軍を破る。10月23日官軍は船で海上に逃れていた広嗣を捕らえ、11月1日に東人は広嗣とその弟綱手を斬った(藤原広嗣の乱)。
天平13年(741年)藤原広嗣の乱を鎮圧した勲功により従四位上から三階昇進して従三位に叙せられる。同年聖武天皇が恭仁京に遷都した際、旧都平城京の留守役に任じられる。天平14年(742年)11月2日薨去。最終官位は参議従三位。 『続日本紀』による。
官歴
和銅7年(714年) 12月26日:見正七位上
時期不詳:正六位下
養老3年(719年) 正月13日:従五位下
神亀元年(724年) 2月22日:従五位上
神亀2年(725年) 閏正月22日:従四位下(越階)、勳四等
天平元年(729年) 9月14日:見陸奥国鎮守将軍
天平3年(730年) 正月27日:従四位上
天平9年(737年) 正月22日:見陸奥按察使兼鎮守将軍
天平11年(739年) 4月21日:参議、陸奥国按察使兼鎮守府将軍大養徳守如元
天平12年(740年) 9月3日:持節大将軍(藤原広嗣追討)
天平13年(741年) 閏3月5日:従三位(越階)
天平14年(742年) 11月2日:薨去(参議従三位)
系譜
父:大野果安[7]
母:不詳
生母不明の子女
女子:大野仲仟[8](?-781) - 尚侍兼尚蔵、藤原永手正室
脚注[脚注の使い方]^ 『続日本紀』神亀元年3月25日条
^ 『続日本紀』神亀元年11月29日条
^ 多賀城碑
^ 『続日本紀』天平元年9月14日条
^ 『続日本紀』天平9年正月22日条
^ 『続日本紀』天平9年4月14日条
^ 『続日本紀』天平14年11月2日条
^ 『続日本紀』天応元年(781年)3月10日条
参考文献
宇治谷孟『続日本紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年
宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年
関連項目
紀牟良自
田辺難波
外部リンク
⇒東北歴史資料館 (日本語)