大野伴睦
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岐阜県山県郡谷合村(現在の山県市)で、大野直太郎の四男として生まれた[1][3]。兄2人(直太郎の次男、三男)は早世した[1]。母・国枝は臼井半四郎の二女[1]。父・直太郎は谷合村村長助役などを務め[3]、その半生を村政のために尽くしたので私産をほとんど蕩尽した[1]呉服類も扱っていたが、親戚知友からの借銭でことを足すようになり、その負債の返還に迫られて苦しんだという[1]

高等小学校を卒業後名古屋陸軍幼年学校を受験するも不合格となる[1]

1908年(明治41年)に上京する[1]1910年(明治43年)に明治大学に入学する[1]1911年(明治44年)の初夏に急性盲腸炎となり入院し、休学する[1]

やがて護憲運動に関心を持ち、1913年(大正2年)に大正政変の暴動に加わったことで逮捕され留置所に入り、明大からも退学処分を受けた[1]。その後立憲政友会本部に立ち入るようになって、三多摩壮士の総帥であり、党の幹部だった村野常右衛門に薦められて政友会院外団員となった。

1915年(大正4年)5月14日に本所緑町加藤外相攻撃の演説を行ったことで再び逮捕され、治安警察法第9条違反の罪で禁錮3月の判決を受け、市ヶ谷監獄に収監された(11月に大赦で出獄)[1]

1922年(大正11年)、芝区から東京市会議員となった[3]
代議士として代議士初当選当時における大野の肖像写真

1930年第17回衆議院議員総選挙に岐阜1区から出馬して初当選。政友会鳩山派に属す。

1933年キリスト教団体美濃ミッションに対して「市民は合法的に、実力で美濃ミッションを閉鎖せよ」と主張して排撃運動を推進した。

新体制運動のスローガンが叫ばれていた1939年、政友会の分裂に際し、鳩山一郎とともに正統派(久原房之助派)に所属。1941年翼賛議員同盟に反発して鳩山らとともに同交会の結成に参加。1942年、非推薦で翼賛選挙に立候補するも落選した。
戦後の活動

1945年日本自由党の結成に参加。1946年第22回衆議院議員総選挙に自由党公認で立候補し当選し国政復帰。総裁の鳩山、幹事長の河野一郎公職追放されたのを受け、党人側から政治経験の浅い吉田茂のお目付け役として後任の幹事長に就任する。吉田内閣では官僚出身の吉田を党側の人間として補佐し、林譲治益谷秀次とともに「党人御三家」と呼ばれた。第1次吉田内閣総辞職後に政権を獲得した日本社会党の右派西尾末広から連立内閣での内務大臣就任を要請されるが、「社会党の左派を切らない限り政権には参加しない」として固辞した。

野党時代で民主自由党顧問だった1948年6月、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[4]。同年、昭和電工事件に連座し起訴された。ただ、1951年には無罪判決を勝ち取った[5]

1952年8月26日に衆議院議長に就任したが、その2日後に抜き打ち解散が行われてわずか3日で議長職を失う。10月の議長選挙で再選されたものの、今度は5ヵ月後にバカヤロー解散が行われて議長を長く務めることはなかった。

鳩山の追放解除後は三木武吉河野一郎ら鳩山側近と対立し吉田派に転じた。特に戦前は政友会とは対立関係であった立憲民政党出身でありながら、戦時中の翼賛議会以後に急速に鳩山と接近してその無二の腹心となった三木に対しては激しい反発を持っていた。

1953年には第5次吉田内閣北海道開発庁長官として入閣。この際、院外団時代に衝突事件を起こし逮捕された時に、起訴を担当した検事小原直から法廷で「本当ならば極刑に処すべきだ」とまで言われたが、小原も法務大臣として共に入閣する事になった。その際、首相の吉田茂に対して冗談交じりに「ここに私を極刑にした方がいいとおっしゃった方がいるのですが、同席してもいいのでしょうか?」と訊ねたことがある。なお、長官時代に秘書官を務めた中川一郎を見初め、政界入りを促した。

1954年には自由党総務会長に就任し、反目しあっていた日本民主党総務会長の三木武吉と和解し、保守合同を進めた。
政界の重鎮

保守合同の話は進んだが、誰を総裁とするかで合意がまとまらなかったが、結党後に公選によって総裁を選出することとし、二党の総裁と総務会長であった鳩山、緒方竹虎、三木、大野の4人による総裁代行委員が設置されることとなった。こうして1955年12月、自由民主党は結成された。なお、後の1956年4月には緒方の死去などもあり、鳩山が自由民主党総裁選挙により総裁に就任した。同年5月、日本消防会館建設資金のため50万円寄付により1957年8月5日紺綬褒章受章、功績顕著として木杯台付一組を賜った[6][7]

自民党内では自身の派閥となる白政会(のちに睦政会となる)を旗揚げし、大野派として約40名を擁する派閥の領袖となった。なお、大野の死後、大野派は一新会船田派)と一陽会村上派)に分裂した。

1957年に初代自民党副総裁に就任した。また、日本遺族会の顧問を務め、1958年1月には遺族からなる陳情団を組織し、政府および自民党に対して靖国神社への公式参拝を要求した[8]

岸内閣時代、岸信介首相から大野派(白政会)を主流派として内閣に協力させることの見返りに後継総裁の念書を手に入れるが、これを反古にされる[9][注釈 1][注釈 2]。一説にはこの事について岸は「床の間肥溜めをおけるわけがない」と言い放ったという[注釈 3]。また渡邉恒雄によるとこの一件は昭和31年(1956年)の総裁選における意趣返しであるという。[注釈 4]。この出来事をきっかけとして、大野は終生岸を憎むこととなる。岸が首相正式辞任直前に右翼(大野を支持する院外団にいた男[10])に刺され負傷した際には「ざまあみやがれあの法螺吹きが」と発言したという説もある。

大野は首相就任に強い意欲を燃やしており、1960年7月に行なわれた岸辞任後の自民党総裁選では、池田勇人に対抗し、石井光次郎とともに党人派から出馬に名乗りを上げた。


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