大野伴睦
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岸内閣時代、岸信介首相から大野派(白政会)を主流派として内閣に協力させることの見返りに後継総裁の念書を手に入れるが、これを反古にされる[9][注釈 1][注釈 2]。一説にはこの事について岸は「床の間肥溜めをおけるわけがない」と言い放ったという[注釈 3]。また渡邉恒雄によるとこの一件は昭和31年(1956年)の総裁選における意趣返しであるという。[注釈 4]。この出来事をきっかけとして、大野は終生岸を憎むこととなる。岸が首相正式辞任直前に右翼(大野を支持する院外団にいた男[10])に刺され負傷した際には「ざまあみやがれあの法螺吹きが」と発言したという説もある。

大野は首相就任に強い意欲を燃やしており、1960年7月に行なわれた岸辞任後の自民党総裁選では、池田勇人に対抗し、石井光次郎とともに党人派から出馬に名乗りを上げた。しかし、大野支持で岸派の一部・十数名を束ねていた川島正次郎から「党人派が分裂すると池田に勝てないので、石井一本にまとめたほうがいい」との進言を受け、大野は泣く泣く出馬を辞退する。ところが川島は「大野を支援しようと思ったが、辞退したのでわが派は池田を支持する」と表明し、池田当選に一役買うこととなる[注釈 5]。この時大野は「川島にだまされたんだ」と再度号泣したといわれる[11]

1961年、池田に接近し再び自民党副総裁に就任。脳血栓東京都新宿区慶應義塾大学病院に入院中だった1964年5月29日心筋梗塞を起こして死去した。73歳没。死没日をもって勲一等旭日桐花大綬章追贈、従二位に叙される。墓所は池上本門寺。1964年6月14日に大野の地元である岐阜県で盛大な県民葬が開催された。岐阜市民センターで執り行われたこの県民葬は岐阜県知事を執行委員長として中央官僚や地元選出の議員、県議員、岐阜県の主な企業の経営者、後援会など総勢3千人が集まった[12]
大野派の主なメンバーbody:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper{margin-top:0.3em}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ul,body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ol{margin-top:0}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper--small-font{font-size:90%}

荒舩清十郎

石原幹市郎

稲村左近四郎

内海英男

太田正孝

大野明

神田博

倉石忠雄

小林絹治

近藤鶴代

田村元

塚田十一郎

徳安実蔵

中井一夫

中川一郎

中山マサ

原健三郎

原田憲

平野三郎

福田篤泰

福田一

船田中

水田三喜男

三原朝雄

村上勇

渡辺栄一

岐阜県と大野岐阜羽島駅近くの銅像詳細は「鉄道と政治#中山道ルートと岐阜羽島駅」を参照

地元岐阜県に東海道新幹線岐阜羽島駅を誘致したとされ、政治駅と騒がれた。駅前には大野夫妻の銅像が立つ。

産経新聞の『戦後史開封』によると、岐阜県は岐阜市または大垣市への新幹線駅設置を要望するが、両市付近の地盤は弱く、また路線を大幅に迂回させなくてはならないために建設予算や名古屋駅以西の所要時間が増える関係上、日本国有鉄道(国鉄)は難色を示した。これに地元は激しく反発し、一時国鉄は岐阜県内での測量ができない状態になった。そこで国鉄が大野に斡旋を依頼し、結局、新幹線路線を迂回させることの無い岐阜羽島駅の設置となった。これは大野自身が地元の利権に絡んで国鉄に圧力をかけたわけではなく、むしろ地元の利益よりも新幹線の速達性を優先した結果であった。岐阜羽島駅が今日、政治利権の権化とされるのは、地元の利益の代弁を装い、地元の利益誘導をでっちあげたことに由来する。大野は東海道新幹線の開業を見ることなくその約4か月前に死去している。なお、国鉄樽見線(現在の樽見鉄道樽見線)の建設にも関与している。

海なし県」の岐阜県をに直結する「中部横断運河」計画の強力な推進者であった。

主要地方道日立大宮氏家線を国道293号への国道指定に尽力したため(大野の死去から5年後に実現)、この道のうち現在は国道400号との重複区間に位置する栃木 - 茨城県境のは「伴睦峠」と名付けられている。なお、大野の国道指定尽力で死去前に国道へ昇格された路線は国道258号(岐阜県大垣市 - 三重県桑名市)がある。

間組のダム建設受注に関しては、ハザマ側から大野に対して積極的な工作が行われた。

亡くなって既に60年経つが、未だに岐阜県出身者で最も首相の座に近づいた政治家と呼ばれる[9]

人物
人物像

趣味は読書、囲碁骨董、俳句[2]麻雀[3]など。日蓮宗を信仰する[2][3]

義理人情に厚い性格から「伴睦殺すにゃ刃物はいらぬ、大義大義と云えばよい[注釈 6]」という戯れ歌でも知られた。保守合同にあたっては、この性格を知る宿敵・三木武吉が「保守合同は救国の偉業」という論理から説得したことで、大野はただちに意気投合したと言われている。

義理と人情に厚いという評判から、真偽のわからない人情話に事欠かない政治家であった。一例として、自分の選挙区とは関係もないある老婦人が「家の近くのドブ板の整備を役所に頼んでも一向にやってもらえない」と訪ねてきた際、憤慨した大野はさっそく役所に電話を入れ、すると今まで老婦人の声を聞き入れもしなかった担当課長が菓子折りを持ってきて謝罪し、すぐに作業が始まったといわれる。

他にも、大野の在宅時に自宅に泥棒が入った際、外遊のために用意していた金を渡し、「今これだけしかないが、もっといるのか?」と聞いた。泥棒は大野の思いもよらない対応にのまれ、逆に「これから一生懸命働いて、必ずこのお金をお返しに来ます」とまで言った。また、事務所に全く見知らぬ青年が駆け込んできて「お金を貸してください」と言ってきたとき、大野は全く疑いもせずこころよくお金を貸したこともあったとされる。以上のような態度・対応をとったのは、政治家のところに泥棒に入ったり金を借りにくるのはよほど困ったことがあったのだから、できるだけのことをしてやろうという考え方があったではないかといわれている。

酒豪としても知られ、「酒は飲む以上わけがわからなくなるまで飲むべきだ」という名言がある。
俳人

俳人としても有名で、万木(ばんぼく)の俳号で多くの俳句を残した。そのうちの一部は句碑になっている。没後の1966年に『大野万木句集』が出された。
佐藤栄作との関係

総裁密約に立ち会った岸の実弟・佐藤栄作に強い反感を抱くようになり、「俺の目が黒いうちは佐藤は総裁にさせない」とうそぶくほどであった(ただし佐藤に対しては、もともと佐藤が当選前に官房長官についたころから態度がでかい官僚だとして毛嫌いしていた)。一方の佐藤も大野を評価しておらず、大野が死去した際には大野の庶民性を称え「“伴ちゃん”とみんなから愛された故人にならい、私も“栄ちゃん”と呼ばれたい」とコメントしたが、後に「他に褒めようがなかったからだ」と酷評している[13]
渡邉恒雄との関係詳細は「渡邉恒雄#政治記者時代」および「村上勇#エピソード」を参照

読売新聞渡邉恒雄は政治記者時代、大野の番記者として寵愛を受け、影響力を拡大することとなった。大野は渡邉が来ると人払いをするほどの関係にあり、渡邉は組閣の際の大野派からの派閥推薦者の選定や、大野の没後、大野派が村上派と船田派に分裂する際にも議員の割り振りにも関与している[14]


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