大都
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注釈^ 1214年、金の宣宗(在位:1213年 - 1224年)はモンゴルの猛攻を恐れて開封への遷都を宣言したが、将来を嘱望されていた徒単鎰はそれに先だって、中都に踏みとどまるのが上策、満洲の故地に退くのが中策、開封に逃れるのは下策であると宣宗に献策していたが、聞き入れられなかったという[2]。徒単鎰は遷都宣言の3日前に没している[2]
^ 元号「至元」と国号「大元」に含まれる「元」の文字には、天、ないし天地万物の根源という意味があり、中華伝統の「」の意味のほか北方民族固有の天(テングリ)の意も内包し、さらに「大」という概念も含まれていた[6]。「大元」「大都」における「大」にもまた「天」の意味が宿り、モンゴルによる天下統一、さらに天朝の都「大都」という思想が込められていた[6]。従来の中華王朝の国号が初めて興起した土地の名や封ぜられた爵邑の名にもとづく命名であり、特定の集団・地域・民族を代表する性格があったのに対し、「大元」はそれに一線を画し、理念的にして抽象的、かつ国号としては普遍性と公平さを追求した[7]。この命名法は明と清にも引き継がれた[7]。元・明・清の正式な国号はそれぞれ「大元」「大明」「大清」であり、そこにおける「大」は単なる尊称ではなかった[7]。「大漢」なり「大唐」「大唐帝国」というような表現は以前からも存在したが、李淵が建てた「大唐」の正式な国号はあくまでも「唐」であり、唐に付加された「大」は単なる尊称にすぎなかった[7]。元朝以降の「大」は、領域の広大さのみならず領域内の住民の多様性や多民族性を含意していた[7]
^ 「國」の字は「囗」と「或」から構成されるが、或は城壁で囲まれた武装都市、囗をその外郭と考えられ、北京城に即していうと「囗」は内城、「或」は皇城にあたるとみられる[11]。さらに「或」のなかに「囗」がみられ、これは王の住まい、すなわち宮城に見立てることができる[11]
^ 女牆とは城のまわりにめぐらした低い垣(ひめがき)のことである[15]

出典^ 古松(2020)pp.184-186
^ a b 杉山(2008)pp.99-102
^ a b c d e f g h i j k 倉沢・李(2007)pp.45-48
^ a b c d 古松(2020)pp.193-195
^ a b c 杉山(2008)pp.166-168
^ a b c 檀上(2016)pp.179-181
^ a b c d e 檀上(2016)pp.179-181
^ a b 檀上(2016)pp.184-186
^ a b c d e f g h i 杉山(2008)pp.168-170
^ a b c d e f g 三田村(1991)pp.163-165
^ a b c d e f 三田村(1991)pp.165-168
^ a b c d e f g h 杉山(2008)pp.170-173
^ a b c d e f g h i j k l m 倉沢・李(2007)pp.48-55
^ a b c d e f マルコ・ポーロ『東方見聞録』(愛宕松男訳、2000)pp.163-166
^ 『女牆』 - コトバンク
^ a b c d e 陳高華(1984)pp.70-81
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 陳高華(1984)pp.82-93
^ ドーソン『モンゴル帝国史 3』pp.39-40
^ 陳高華著、佐竹靖彦訳『元の大都』 中公新書
^ 『大モンゴル3 大いなる都』 角川書店
^ “北京の故宮の地下から数百年前の元代の皇居跡見つかる―中国”. Record China (2016年5月9日). 2016年6月9日閲覧。
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