大邱 達西区 月城洞にて旧石器時代の遺物である細石刃石器が含まれた遺跡の発掘により、おおよそ2万 - 1万年前から大邱に人が住んでいたことが推定される。大邱の昔の名前として、タボル(??、多伐)、タルボル(??、達伐)、タルブルソン(???、達弗城)、タルクボル(???、達句伐)、タルクファ(???、達句火)テグ(??、大丘)がある。そのうちタルクボル(???)とテグ(大丘)が有名である。これらは古代朝鮮の固有語の音写で、おおむね「大きい原野」などの意味となる。
757年(新羅 景徳王16年)、喟火郡は寿昌郡へ、タルグファヒョン(????、達句火縣), 達句伐と呼ばれていたものは大丘県に改称された。
高麗時代は寿城郡と呼ばれ、1143年(高麗 仁宗21年)、大丘県は縣令官に昇格し、河濱縣、花園縣がこれに属した。
李氏朝鮮の時代より、大丘は慶尚道北部地域のうち行政上・経済上・文化上の中心都市へと変わっていった。
18世紀に大丘から現在の漢字の大邱に書き換えられている。これは「丘」が儒家の始祖、孔子の諱であり、それに配慮し「邱」に置き換えたとされている(避諱)。長年にわたって慶尚道監営の中心地的位置を享受してきた大丘は、1895年(朝鮮 高宗32年)、慶尚監営が廃止されると共に大邱郡へと改編され、府庁所在地となった。
日本統治時代、1910年に大邱郡は大邱府(たいきゅうふ)に改められ[5]、1914年に大邱府と達城郡は分離、独立後の1949年に大邱府は大邱市になっている。
敗戦後、大邱は海外帰還同胞の定着により人口が急激に増加し、大韓民国の大都市として成長した。1950年7月16日、朝鮮戦争により8月17日まで大韓民国の臨時首都となり、1981年7月1日、慶尚北道 大邱市が大邱直轄市へと昇格した。1988年1月1日、西区及び南区の一部をもって達西区が設置され、1995年1月1日、地方自治体が施行されると共に大邱広域市に改称された。また、1995年3月1日、達城郡全域を慶尚北道から編入し、現在の大邱広域市は883.56 km2に拡大された。
さらに、大邱は2002年FIFAワールドカップ本選、2003年夏季ユニバーシアードを開催した経験をもとに、2011年大邱世界陸上競技選手権大会、2012年第93回全国体育大会、2013年大邱世界エネルギー総会が開催された。以降、2015年第7回世界水フォーラムを開催した大邱市は、.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}水(みず)産業の中心地として位置づけられている。
1910年10月1日 - 大邱郡が大邱府に改称。
1911年11月14日 - 大邱府東上面・西上面が合併し、大邱面が発足。
1914年4月1日 - 大邱府を分割し、都市部である大邱面の大部分が新たな大邱府に昇格。大邱府の農村部と玄風郡を達城郡に改編。
1917年4月1日 - 達城郡寿城面の一部を編入。
1938年10月1日 - 達城郡寿城面および達西面・城北面のそれぞれ一部を編入。
1949年8月15日 - 大邱府が大邱市に改称。
1957年11月6日 - 達城郡東村面・月背面・城西面・嘉昌面・公山面を編入。