大連市
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長白山のある千山山脈は旧市街区を貫いており、地形のほとんどは山地や緩やかな低い丘陵であり、平野と低地は河川の水が海へ流れ込むところ及び山裾の谷地に点在するだけで、至るところでカルスト地形が目に付き、カルスト地形と海食地形が比較的に多い。

大連地区には主な水系として黄海と渤海の2つがある。碧流河、英那河、荘河、賛子河、大沙河、登沙河、清河、馬欄河などの大きな河川は黄海に流れ込み、渤海に注入する主な河川は復州河、李官村河、三十里堡河などである。そのうち、最も長い川は碧流河で、大連市街区の水源河となっている。また、200本余りの小さな河川もある。
周りの都市

半径45キロメートルの西南方向は
旅順口区老鉄山、東北方向は金州区金石灘。

半径360キロメートルの東は平壌、南は青島、西は天津、北は瀋陽

半径1630キロメートルの東は東京、南は台中、西は蘭州、北は漠河

気候

大連市は北半球の温暖地帯-ユーラシア大陸の東海岸にあり、気候は海洋性の特徴も兼ね備える暖温帯大陸性モンスーン気候に属し、冬は厳寒ではなく、夏は酷暑でもなく、四季がはっきりしている。年間平均気温は10.5℃、年間降水量は550?950mm、日照時間は2500?2800時間である。

大連 (1971-2000)の気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
平均最高気温 °C (°F)?0.4
(31.3)1.4
(34.5)7.2
(45)14.6
(58.3)20.2
(68.4)24.2
(75.6)26.6
(79.9)27.3
(81.1)23.9
(75)17.5
(63.5)9.7
(49.5)3.1
(37.6)14.6
(58.3)
日平均気温 °C (°F)?3.9
(25)?2.1
(28.2)3.2
(37.8)10.2
(50.4)16.0
(60.8)20.3
(68.5)23.4
(74.1)24.1
(75.4)20.3
(68.5)13.8
(56.8)6.0
(42.8)?0.5
(31.1)10.9
(51.6)
平均最低気温 °C (°F)?6.8
(19.8)?5.0
(23)0.2
(32.4)6.6
(43.9)12.2
(54)17.2
(63)21.0
(69.8)21.6
(70.9)17.4
(63.3)10.6
(51.1)2.8
(37)?3.5
(25.7)7.9
(46.2)
降水量 mm (inch)8.9
(0.35)5.8
(0.228)12.1
(0.476)24.7
(0.972)47.0
(1.85)83.2
(3.276)140.1
(5.516)155.4
(6.118)65.1
(2.563)29.0
(1.142)20.0
(0.787)10.6
(0.417)601.9
(23.697)
湿度56565556617384816962605864
平均月間日照時間198.0200.2238.8256.9277.6254.7220.7240.8251.5234.6182.1183.92,739.8
出典: ⇒中国气象局 国家气象信息中心(in Chinese) 2009-03-17

歴史ロシア領事館大連賓館(旧大連ヤマトホテル)詳細は「大連の歴史」を参照

の時代には三山と呼ばれ、代には三山浦、時代には三山海口、青泥窪口と称した。1880年代清国大連湾北岸に砲台を築き、都市が形成され始めた。

日清戦争後の1898年三国干渉で清国を救済した見返りとして、旅順・大連租借条約で大連のある遼東半島先端部を租借する権利を得たロシアが「ダルニー」(Дальний; 「遠い」)と名づけた。真冬でも凍結しない港はロシアでは貴重であったため、巨額の資金を投入して東清鉄道を建設してシベリア鉄道と連絡させ、港の整備を開始した。またフランスのパリをモデルにした都市計画を作成し、郊外の旅順には要塞を建設した。

しかし、1904年に勃発した日露戦争は日本優位のまま終戦となり、戦後の1905年ポーツマス条約により遼東半島先端部の租借権はロシアから日本に移った。日本では清朝の地名「大連湾」から「大連」が都市名として採用された。これはロシア名のダルニーと発音が似ていることにもよる。

ロシア時代は、鉄道の建設が終わったばかりで港は整備中であり、線路の港寄りの街路と一部の建築物ができた状態で、人口は4万人程だった。日本政府は、大連を貿易都市として発展させるため「大連市区計画」を策定、関東都督府南満洲鉄道にインフラの整備を続行させ、港湾施設を拡張した。またロシアの作成した都市計画を踏襲して西洋風の建築物が立ち並ぶ街路と市電を建設した。1920年代には現在の大連駅とその駅前一帯が整備され、中心市街がほぼ現在の形になった。

日中戦争1937年に勃発したが、1940年には大連の人口は60万人を超え、アジア有数の貿易港となった。日本人居住者は約20万人で、大連の政治家や公務員の大半が日本人であったため、支配層と見られていた。これは隣接する満洲国の主要都市でも同じような状況であった[1]


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