大連地区には主な水系として黄海と渤海の2つがある。碧流河、英那河、荘河、賛子河、大沙河、登沙河、清河、馬欄河などの大きな河川は黄海に流れ込み、渤海に注入する主な河川は復州河、李官村河、三十里堡河などである。そのうち、最も長い川は碧流河で、大連市街区の水源河となっている。また、200本余りの小さな河川もある。 大連市は北半球の温暖地帯-ユーラシア大陸の東海岸にあり、気候は海洋性の特徴も兼ね備える暖温帯大陸性モンスーン気候に属し、冬は厳寒ではなく、夏は酷暑でもなく、四季がはっきりしている。年間平均気温は10.5℃、年間降水量は550?950mm、日照時間は2500?2800時間である。 大連 (1971-2000)の気候 魏晋の時代には三山と呼ばれ、唐代には三山浦、明清時代には三山海口、青泥窪口と称した。1880年代に清国が大連湾北岸に砲台を築き、都市が形成され始めた。 日清戦争後の1898年、三国干渉で清国を救済した見返りとして、旅順・大連租借条約で大連のある遼東半島先端部を租借する権利を得たロシアが「ダルニー」(Дальний; 「遠い」)と名づけた。真冬でも凍結しない港はロシアでは貴重であったため、巨額の資金を投入して東清鉄道を建設してシベリア鉄道と連絡させ、港の整備を開始した。またフランスのパリをモデルにした都市計画を作成し、郊外の旅順には要塞を建設した。 しかし、1904年に勃発した日露戦争は日本優位のまま終戦となり、戦後の1905年ポーツマス条約により遼東半島先端部の租借権はロシアから日本に移った。日本では清朝の地名「大連湾」から「大連」が都市名として採用された。これはロシア名のダルニーと発音が似ていることにもよる。 ロシア時代は、鉄道の建設が終わったばかりで港は整備中であり、線路の港寄りの街路と一部の建築物ができた状態で、人口は4万人程だった。日本政府は、大連を貿易都市として発展させるため「大連市区計画
周りの都市
半径45キロメートルの西南方向は旅順口区老鉄山、東北方向は金州区金石灘。
半径360キロメートルの東は平壌、南は青島、西は天津、北は瀋陽。
半径1630キロメートルの東は東京、南は台中、西は蘭州、北は漠河。
気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
平均最高気温 °C (°F)?0.4
(31.3)1.4
(34.5)7.2
(45)14.6
(58.3)20.2
(68.4)24.2
(75.6)26.6
(79.9)27.3
(81.1)23.9
(75)17.5
(63.5)9.7
(49.5)3.1
(37.6)14.6
(58.3)
日平均気温 °C (°F)?3.9
(25)?2.1
(28.2)3.2
(37.8)10.2
(50.4)16.0
(60.8)20.3
(68.5)23.4
(74.1)24.1
(75.4)20.3
(68.5)13.8
(56.8)6.0
(42.8)?0.5
(31.1)10.9
(51.6)
平均最低気温 °C (°F)?6.8
(19.8)?5.0
(23)0.2
(32.4)6.6
(43.9)12.2
(54)17.2
(63)21.0
(69.8)21.6
(70.9)17.4
(63.3)10.6
(51.1)2.8
(37)?3.5
(25.7)7.9
(46.2)
降水量 mm (inch)8.9
(0.35)5.8
(0.228)12.1
(0.476)24.7
(0.972)47.0
(1.85)83.2
(3.276)140.1
(5.516)155.4
(6.118)65.1
(2.563)29.0
(1.142)20.0
(0.787)10.6
(0.417)601.9
(23.697)
% 湿度56565556617384816962605864
平均月間日照時間198.0200.2238.8256.9277.6254.7220.7240.8251.5234.6182.1183.92,739.8
出典: ⇒中国气象局 国家气象信息中心(in Chinese) 2009-03-17
歴史ロシア領事館大連賓館(旧大連ヤマトホテル)詳細は「大連の歴史」を参照
日中戦争が1937年に勃発したが、1940年には大連の人口は60万人を超え、アジア有数の貿易港となった。日本人居住者は約20万人で、大連の政治家や公務員の大半が日本人であったため、支配層と見られていた。これは隣接する満洲国の主要都市でも同じような状況であった[1]。