大輪田泊
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

注釈^ 佐賀平野の穀倉地帯。忠盛のあとには信西が神埼荘を知行した。信西は「遣唐大使」を夢みてみずから中国語を習い、保元の乱藤原頼長の所領が没収されたのちは陸奥国本良荘・高鞍荘などを年貢とする荘園をも合わせた[2]。信西没落後は、清盛がその跡を継承した[2]
^ 清盛の大宰大弐任官は保元3年(1158年)。当時大弐本人は赴任しないという慣例があったが、仁安元年(1166年)には、弟の平頼盛が現地に赴任している[4]
^ 清盛の対宋積極策は出家によって天皇を頂点とする世俗の政治社会秩序にとらわれない自由な立場と深いかかわりがある。出家者は日本国王(天皇)の臣下ではないから、陪臣(臣下の臣下)とは外交をおこなわないという中国側の大原則にも抵触しない[5]
^ 妻の弟平時忠検非違使別当として京都の制圧にあたった。
^百錬抄』および『玉葉』の嘉応2年(1170年)9月20日条にも法皇が福原に御幸して宋人と会う記事が載っている。この時代、外国人が天皇と接見することは宇多天皇寛平御遺誡で禁止された行為と認識されていた。このため『玉葉』の筆者九条兼実は「我が朝延喜以来未曽有の事なり。天魔の所為か」と批判している[6]。宇多の寛平御遺誡には「外蕃之人必可召見者。在?簾中見之。不可直對耳。李環朕已失之。(異国の者と会う時に直接会ってはならず、必ず御簾の中から見るようにしなさい。直接会話してはならない。李環と会ったことは朕の誤りであった)」とあり、厳密には外国人との面会そのものを禁じた文言ではない。ただし、平安時代後期以降には宇多の子である醍醐天皇が、高麗の占い師を宮中に入れて占わせたという話が広まっており、『古事談』ではこの際に醍醐天皇の声が小さいことを国情に合うと評されたという逸話とされている。こうしたこともあり、この時代には宇多の遺誡は宮中に外国人を入れること自体を禁じたものと認識されるようになっていた[7]
^ 答進物としては後白河院からは色革30枚を納めた蒔絵厨子1脚と砂金100両を納めた手箱1、清盛からは一振と武具を納めた手箱があった[6]。黄金100両は奥州の金であろうと考えられる[2]
^ 治承3年(1179年)には「銭の病」という奇病が流行している[2]
^ これまでの例では最初の社参は石清水八幡宮賀茂社春日大社あるいは日吉大社などであり、遠い厳島を選んだのは異例のことであった。竹内理三は、高倉上皇の社参を、清盛の心をやわらげ、後白河法皇を幽閉の状況から救わんとする願いから発したものと解釈している[10]
^ 厳島参詣は華やかなものであったが、これに対する延暦寺・園城寺・興福寺の反発は激しく、それを背景に同年4月、以仁王源頼政が反平氏の兵を挙げている[10][11]
^ かつては喜田貞吉による山陽道を正中線とする新京プランが提起されたが、足利健亮は喜田案には疑問ありとして、他の都城同様南北線を正中線とする和田新京プランを想定している[12]
^ 新都の地割にあたったのは藤原実定源通親藤原行隆らであった。
^ 高倉上皇は当初福原の平頼盛の邸宅に入ったが、のちに平重衡の邸に移った。後白河法皇は、平教盛の邸に居住した。摂政藤原基房は安楽寺の別当安能(あんのう)の房を宿所と定めた。

出典^ a b c d e f g h i j k l 武藤(1979)p.311
^ a b c d e 五味(1989)p.317

次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:42 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef