大谷吉継
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 凡例大谷 吉継
『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』落合芳幾
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕永禄8年(1565年
※永禄2年(1559年)説も
死没慶長5年9月15日1600年10月21日
改名桂松[注釈 1]幼名)、吉継
別名吉隆、通称:紀之介、平馬、
号:白頭
戒名渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門
墓所福井県敦賀町永賞寺、岐阜県関ケ原町滋賀県米原市
官位従五位下刑部少輔
主君豊臣秀吉秀頼
氏族大谷氏
父母父:大谷吉房または大谷盛治、母:東殿
兄弟妹:こや(小屋)[1](北政所侍女、御倉番[2])、下間頼亮室、石川貞清
吉治(吉勝)、木下頼継竹林院真田信繁正室)、泰重
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大谷 吉継(おおたに よしつぐ、永禄8年〈1565年〉- 慶長5年9月15日1600年10月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが[注釈 2][注釈 3]、現存する古文書では確認できず、いずれも「吉継」である[3]通称は紀之介、号は白頭。

業病(詳細は後述)を患って失明し、関ヶ原の戦いでは輿に乗って軍の指揮を執ったが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して死去した[4]
生涯
出自

永禄2年(1559年)に近江国滋賀県)で生まれたとされてきたが、現在は6年後の永禄8年(1565年)を生年とする説が有力となりつつあり、その場合は享年も従来の42歳から36歳と改められることになる[5][6][注釈 4][注釈 5]

従来の説では父は大友氏の家臣・大谷盛治とされ、父が病気治療のために豊後国に赴いてそのまま一時期、大友氏の家臣になっていた折に生まれたという説があった[注釈 6]。だが、当時の大友家中に平姓大谷氏は存在せず[7][注釈 7]六角氏の旧臣・大谷吉房とする説が有力である[注釈 8]

華頂要略』の坊官大谷家系図に吉継の名があること、本願寺坊官下間頼亮室が妹であることなどから、青蓮院門跡坊官・大谷泰珍の子という説もある[8]

母が大政所ないし高台院の縁故者であったことは、すでに作者不詳の『校合雑記[注釈 9]』に記載があった[9] が、『校交雑記』が引く『兼見卿記』の確認作業により、吉継の母は高台院の取次役であった東殿であることが確定した[10][11]。また『関原軍記大成』では東殿が高台院の生母の朝日殿の親族であったとも語られている[12]。天正14年(1586年)4月6日、大坂城へ伺候した豊後国の大友義鎮が国元の家老へ送った書状に孝蔵主とともにあえて東殿と名指しでその存在を伝えており、すなわち秀吉のくつろぐ奥御殿の次ぎの間に東殿が控えており、かなりの政治力を有していたことがうかがえ、豊臣家中で重責を担っていたといえる[13]

兄弟姉妹が存在し、栗山林斉と祐玄(祐玄坊とも)の2人の甥が記録に見える。
秀吉に仕える(織田時代)

天正始め頃に秀吉の小姓となった[注釈 10]。天正5年(1577年)10月に秀吉が織田信長から播磨国攻略を命令されて姫路城を本拠地としたとき、脇坂安治一柳直末福島正則加藤清正仙石秀久らと共に秀吉御馬廻り衆の1人として大谷平馬の名前が見える[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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