大谷吉継
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^ 関ケ原町にある吉継の墓塔は「大谷吉隆墓」として国の史跡に指定されている(国の史跡「関ヶ原古戦場」の附指定)。陣跡を示す碑に「大谷吉隆陣所古址」、墓塔の案内板に「大谷吉隆(吉継)」とそれぞれ記されている。
^ 宮本義己も2000年9月3日、歴史シンポジウム「大谷吉継の謎に迫る」(敦賀・プラザ万象)において永禄8年説を指摘し、染谷光廣の説を補強する。
^ 兼見卿記天正二十年一月三日 「ひかし殿子息刑部少輔廿八才」(数え年。満年齢27歳の年である)このとき吉継の母である東殿は吉田神社の神主である吉田兼見に祈祷を頼んでおり(朝鮮出兵の戦勝祈願か)、この年齢も東殿の申告である可能性が高い
^ 太田亮の『姓氏家系大辞典』に「大谷刑部少輔吉隆は豊後の人にして」「子孫盛治の子吉隆、刑部少輔に任ぜらる」とある。『名将言行録』においても「吉隆は大友家の臣なり、大友家亡し時、浪遊し、姫路に来り、石田三成に寄り、秀吉に仕ふ」とある。『国史大辞典』では「父は豊後の国主大友宗麟の家臣大谷盛治であるといわれている」とある
^ 毛利氏に仕えた石見益田氏の家臣に平貞経を祖とする広瀬古土居城主・匹見大谷氏があり、この匹見大谷氏の初代に「盛」の字を持つ大谷盛胤がいること、16世紀半ばの当主に姓名官途とも同じ大谷吉隆がいることから、これとの混同が生じたものと思われる。この大谷氏は毛利氏の敵対勢力に内通した疑いで主家益田氏から族滅されているが、内通した勢力が大友氏であった場合、「大友氏の家臣だった大谷氏」との俗説には「毛利氏陪臣から大友氏家臣になった」ということで説明がつくが、吉継豊後出身説の証拠とはならない
^ 『淡海温故録』『輿地志略』で吉継は近江大谷村の出身としている
^ 『交合雑記』『?合雑記』とも。国立国会図書館デジタルコレクション
^ 『淡海温故録』で「秀吉公長浜御在城の頃召出され」とある
^ 『一柳家記』では賤ヶ岳七本槍や石田三成らと14人と共に柴田軍1万5000人相手に無類の働きをしたとある[18]
^ 洗礼名はシモン。安威弥四郎の子。
^ なお、慶長3年(1598年)の太閤検地により3,000石近い加増をうけるが、その際に今立郡の領地は収公されている[26]
^ 孫の一人に大坂の陣に徳川方として参陣、功を賞されて家康から50石の加増を受けた大谷隆昌(隠岐、五右衛門)がおり、判明していない一族に徳川方についた者がいた可能性はある
^ 実際に前田軍と戦ったのは丹羽長重であるが、利長は吉継によって流された偽情報に動揺して軍を加賀に撤退させる際、丹羽軍に襲われたという。
^ 吉継に関しては諸説があるが、『淡海温故録』は吉継を近江出身としている。尤もこの史料は吉継を若狭国小浜城主だったとしているなど信憑性が疑問視されている。
^ 九州征伐では共に兵站奉行を務め、天正18年(1590年)の小田原征伐でも兵站奉行を、文禄の役でも「船奉行」を共に務めている。また太閤検地でも三成と検地奉行を担当しており、天正14年(1586年)に三成が堺奉行になった際には三成の補佐役に付された。天正13年(1585年)9月14日に秀吉が有馬温泉に湯治に出かけた際にも、三成や増田長盛とその供を務めている(『宇野主水日記』)。『甫庵太閤記』では「御扶持方渡し奉行」として三成と吉継、長束正家の3人を挙げている。
^ 一説には吉継が飲む際に顔からが茶碗に落ち、周りの者達はさらにその茶を飲むのをためらったが、三成はその膿ごと茶を飲み干し、「おいしいので全部飲んでしまったから、もう一杯茶を注いでほしい」と気を利かせたとされる。
^ 本郷和人によると、この逸話の典拠は不明で、江戸時代に遡ることが難しく、明治時代のジャーナリストであった福本日南が明治43年(1911年)に刊行した『英雄論』では、三成ではなく秀吉の話として載っていて、本郷は「これがぼくが知っているものとしては一番古い。もし何かソースをご存じの方、ぜひご教示下さい」と述べている[50]
^ 大道寺友山『落穂集』では、三成に対して「殊外へいくわい(横柄)に候とて、諸大名を始め末々の者迄も日比(頃)あしく取沙汰を仕る由也」とある。

出典^ 『華頂要略』門主傳第二十四
^ 『兼見卿記』文禄4年時点
^ 花ヶ前盛明 2000, p. 219, 平野明夫「大谷吉継の発給文書」.
^ 桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年、158頁。 ASIN B000J9GTRU
^ 岡本良一「武家の書状・大谷吉継」『日本美術工芸』365号、1969年。 
^ 染谷 1986, p. 166.
^ 荻原勝「小瀬甫庵『太閤記』を中心とする大谷吉継の軌跡」『敦賀論叢』第2号、1987年。 
^ 外岡慎一郎「青蓮院坊官大谷家と大谷吉継?その系譜をめぐって?」『敦賀論叢』第17号、2002年。 青蓮院坊官大谷家の系譜に大谷泰珍の子として吉継の名がみえる。
^ 『関ヶ原合戦史料集』新人物往来社
^ 染谷 1986, p. 164.
^ a b 宮本義己「関ヶ原合戦―西軍の孤塁を守り義に殉じた熱き闘将―」『歴史読本』42巻7号、1997年。
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