大覚寺
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1981年昭和56年)から始まった発掘調査によって、名古曽滝跡の現存する滝石組のうち、2石は当初の位置にあるものの、その他の石は後代の手が加わっていること[8]、滝から流れる豊富な水流が、その南方に開削された幅5-10mの蛇行溝(大部分が素堀)を通って大沢池へ注いでいたこと[9]が明らかになった。蛇行溝は自然の流れを模して造られた庭園の遣水施設であったと考えられる。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}嵯峨天皇が譲位を契機として冷然院からこの新院へと遷御した時期に最大幅約12メートル、深さ約1メートル規模に拡張され、拡張と同時に流末に水位調節のために石組み溝が新たに設けられ、これによって流路全体がせき止められて池状のたまりとなっていたこと、このことから改修時期には供給される水量が減少し、池の注ぎ口に設けられた溝もやがて埋没し、流水方向に直交して低い土手が築かれてここに帯状に玉石敷が造られると同時に施設の西側に景石が添えられ、この施設によって流路は大きくせき止められて広大なたまりを形成しオーバーフローして大沢池に注ぎ込むこととなっていたものと考えられている[要出典]。

その後、藤原公任が「滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れて尚聞こえけれ」と詠った[10]ように平安時代末期には滝の水が既に枯れ[11]西行の和歌には、滝石が閑院宮に運び去られた、と記されている[6][12]

大沢池の外周はおよそ1キロメートルあり、広さは約6万4000平方メートルで甲子園球場がすっぽり入る大きさである。
境内大沢池より心経宝塔を望む

皇室ゆかりの寺院である大覚寺には、宮廷風の建築や皇室ゆかりの建物を移築したものが多い。伽藍の中軸線上には南から勅使門(唐門)、御影堂、心経殿が建ち、御影堂の東に五大堂、西に宸殿、宸殿の北側に正寝殿が建つ。これらの建物の間は屋根付きの廊下で結ばれている。伽藍の中心部に位置しているのは、本堂にあたる五大堂ではなく、嵯峨天皇ほかの歴代天皇が書写した般若心経を収める心経殿である点が注目される。

五大堂 - 大覚寺の本堂。境内東側に位置する。天明年間(1781年 - 1789年)建立。当初は伽藍の中心部(御影堂前の現在、石舞台がある位置)にあったが、1925年大正14年)に御影堂が移築された際に現在の位置に変更された。元来この堂の本尊であった鎌倉時代作の五大明王像は霊宝館に移され、1975年昭和50年)に、仏師の松久朋琳・松久宗琳が完成させた五大明王像を本尊に安置している。堂は写経道場として用いられており、堂の東側の濡れ縁「観月台」から大沢池を望むことができ、ここから大沢池へ移動もできる。

安井堂(御霊殿) - 東山にあった安井門跡蓮華光院の御影堂を1871年明治4年)に移築したもの。後水尾天皇像を祀る。

心経前殿(御影堂) ‐ 伽藍の中心部に位置する、北側に建つ勅封心経殿の前殿である。この建物は大正天皇の即位式に使用された饗応殿で、1925年(大正14年)に後宇多法皇600回忌を機に下賜されて大覚寺へ移築されたものである。入母屋造、桟瓦葺き。堂内の中心部は北側に建つ心経殿の拝所となり、その左右に大覚寺にゆかりの深い嵯峨天皇、弘法大師(空海)、後宇多法皇、恒寂入道親王の像を安置する。

勅封心経殿(国登録有形文化財) ‐ 1925年(大正14年)に法隆寺の夢殿を模して再建された鉄筋コンクリート造の小規模な八角堂で、壁面は校倉造風である。御影堂の北に建つ。内部には嵯峨天皇、後光厳天皇後花園天皇後奈良天皇正親町天皇光格天皇の直筆の般若心経を収蔵し、薬師如来像を安置する。内部は非公開で、開扉は60年に一度(戊戌の年)とされている。

霊宝館

村雨の廊下

宸殿(重要文化財) ‐ 後水尾天皇より下賜されたもので、東福門院(後水尾天皇中宮)の女御御殿を移築したものと伝える。蔀戸(しとみど)を用いた寝殿造風の建物で、屋根は入母屋造、檜皮葺きとし、周囲に広縁をめぐらす。「宸殿」は門跡寺院に特有の建物名で、「宸」は「皇帝」の意である。内部は大きく4室に分かれ、南正面の西側が「牡丹の間」(33畳)、東側が「柳松の間」(18畳)、奥の西側が「紅梅の間」(22畳)、東側が「鶴の間」(12畳)である。各室には襖絵があり、中でも「牡丹の間」の牡丹図と「紅梅の間」の紅梅図の襖絵(ともに狩野山楽筆)は著名である(襖絵のオリジナルは収蔵庫に収められ、現在ここにある襖絵は複製である)。

宸殿前庭 - 一面に白砂が敷き詰められ、右近の橘と左近の梅(左近の「桜」ではない)がある。

石舞台

鐘楼

唐門(勅使門) - 嘉永年間(1848年 - 1854年)再建。

正寝殿(重要文化財) ‐ 重要文化財指定名称は「大覚寺客殿(対面所)」。入母屋造、檜皮葺き。桃山時代建立の書院造建築で、内部は大小12の部屋に分かれる。間取りは、東列は北から南へ「剣璽の間」「御冠の間」「紅葉の間」「竹の間」の4室(各8畳)、中央列は北が「雪の間」、南が「鷹の間」(各12畳)、西列は3間×1間半の細長い部屋(9畳)が2室で、北が「山水の間」、南が「賢人の間」である。これら諸室の南側と東側には幅1間の「狭屋」がある。「御冠の間」(「上段の間」ともいう)には玉座があり、後宇多上皇が院政を行った部屋を再現したものである。また、南北朝の講和会議がここで行われたと伝わる。障壁画は狩野山楽および渡辺始興の筆。

庭湖館 ‐ 江戸時代中期に大沢池畔に建てられた休憩所を1868年(明治元年)に移築したもの。非公開。

霊明殿 ‐ 内閣総理大臣を務めた海軍大将斎藤実1928年(昭和3年)、東京の沼袋(現・中野区沼袋)に建てた日仏寺の本堂だったもの。1958年(昭和33年)に当時大覚寺門跡であった草繋全宜(くさなぎぜんぎ)が移築した。縁板まで含め総朱塗りとした建物で、阿弥陀如来を本尊とする。

秩父宮御殿(貴賓館) ‐ 秩父宮の御殿として1923年(大正12年)、東宮仮御所の霞ヶ関離宮(現・国会前庭)に建立されたもの。


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